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十月九日

友良は今、一人の患者と対峙している。


デイルームと呼ばれる病棟の共有スペースにて、それは起こった。


患者の昼食が終わり、服薬も滞りなく完了した直後である。

男性患者の一人が激しい頭痛を訴えた。


入院しているのは、ストロベリーガスの被害者であって、特殊と判定されている、二十代から三十代の男女、合わせて十三名だ。


患者の日常的な生活動作は申し分ない。

基本見守りで、介助の必要は殆どないが、引き換えに、興奮状態に陥った患者を制止する、という業務が、スタッフの肩に重くのしかかってくる。


興奮状態に陥ると凶暴性も増すため、男性スタッフ、又は、特殊性を持つスタッフの常時配備が定められた。


そして正に今が、本領発揮の舞台というやつだ。


「師長さん、今のうちに他の患者さんを部屋に退避させてください、あと九鬼さん、先生に連絡よろしくです」


友良の後方にいたこ師長は、「わかった」と、落ち着いた様子で、他スタッフと協力し、速やかに患者を各部屋に誘導させた。


男性看護師の九鬼は、医師に連絡し、薬剤のオーダーを取る。


友良の目の前には、男性患者が立っている。

肩を丸め、左腕をダラリと垂らし、右手は眉の上から側頭にかけてを押さえている。

息が浅い。目をギュッっと瞑り、湧き上がる興奮に蓋をしようとする必死さが伺えた。


男性患者は友良に向かって言った。


「加藤さん…俺が暴れたら……遠慮なく…」


院内にコードホワイトの放送が響き渡る。


「なに言ってるんですか。今歩けそうです?」


男性はゆっくり頷いた。


「よし、保護室まで一緒に行きましょう」


すると男性は両腕を後ろに回す。


「…ヤバそう、だから…加藤さん、お願い…」


「…わかりました」


友良は男性の両手首を持ち、「さぁ、行きましょう」、と言った。


男性の脈を指先に感じる。


ナースステーションから見える位置に保護室が設置されている。


あと十数歩、脈は速いがまだ大丈夫だと、友良は冷静に判断した。


九鬼が注射器を片手に持ってくる。


注射器の中身は鎮静剤だ。


つまり男性が暴れたら、お尻にブスリといくわけだ。


九鬼は二人の様子をみる。


両腕を後ろで拘束されているけど、彼の意思だろう。彼女は患者の気持ちを優先する人だ。


保護室まで到達し、入室したのを確認する。


と、僕は咄嗟に駆け寄った。同時に加藤さんの、

「ごめんね」、という声が聞こえる。


友良は男性の肘を折り曲げ、体重をかけて壁に押し付ける。


脈は先程よりも速く、瞳孔は開き、叫びながら身体を捩り壁に頭を打ちつけた。


九鬼は男性の側頭部に掌を当て、頬を壁に密着させる。


友良が言った。


「九鬼さんがいてくれて良かった」


「僕もそう思います」


特殊者のパワーが規格外なのは、世間でも知られていること。


僕の友人は、そのパワーが活かせる唯一の場所があると言い、レンジャーを経て義勇兵になった。


そんな友人はかつて、野球選手を夢見る少年だった。


恐らく彼も、夢見る少年だったはず。


コードホワイトで駆けつけた男性スタッフは三名で、一人は左、もう一人は右の太腿と足首を固定した。そしてあと一人は、九鬼と交替する。


右の足を抑えているスタッフが九鬼に言った。


「ちゃんとオーダー取ってる?」


「えぇ、他害行為に発展しそうなら躊躇なく打てと」


「ジプ筋?」


「そうです」


「じゃぁ、この状態で十五分ってとこか…」


友良は男性に密着させている身体を少し浮かせる。阿吽の呼吸で、九鬼は男性のズボンとパンツを臀部が見えるところまで下げた。


針に被っているキャップを外すと、九鬼は優しく声をかける。


「湊《みなと》くんゴメンネ、ちょっと痛くなるよ」


針先が臀部に刺さり、筋肉に薬液が流し込まれると、声を更に荒げ、上半身を捻ろうとする。


針先が折れてはまずいと、友良は奥歯を食いしばり、足の裏に力を入れ体重をかけた。背中の中心線を意識し、再び身体を密着させ壁に押しつける。


喉が絞り切れるような痛々しい声が響いた。


頭を押さえているスタッフが言った。


「えっとなんだ、同調興奮ってやつは大丈夫なんか」


注射針にキャップを被せながら九鬼は答える。


「今のところは。もし何かあったら緊急用のボタンが押されます」


左足を押さえるスタッフも会話に加わった。


「この科にだけ設置されてるボタンですよね?」


「えぇ、そうのようです」


それは、各部屋に設置されており、入院している患者にも押す権利がある。

今回の様な緊急事態が起きた時にだけ押すことが、スタッフにも患者にも徹底されているのだ。


では押すとどうなるか。

病棟内には優しい音楽が流れ、館内にコールホワイトを響かせる。


薬はまだ効いていない。抵抗は続き、肩を後ろに振ろうとした。


頭を押さえているスタッフは、友良を見下ろすと言った。


「こりゃ想像以上のパワーよな」


友良は話している余裕などない。少しでも手を抜いたら如何なるか、よく知っている。


九鬼が代わりに返事をした。


「ですから僕らがいるわけなんです」


「おっと危ない」と、少し浮かせた右足を着地させると、続けて溢す。


「片足だけでもコレだ。ここで同調興奮は厳しいな…」


コードホワイトで駆けつけた男性スタッフは、日頃訓練されている精神科救急の面々である。

特徴として、他科のスタッフよりガタイが良い。


友良はやっと口を開く。


「大丈夫ですよ。九鬼さんがいるから」


なにも九鬼は、ここで高みの見物をしているわけではない。

目の前の患者の観察、及び、二次被害に備えて即座に動けるよう、ここに立っている。


九鬼は苦い顔をして言った。


「流石に一人は厳しいよ。特に男性は」


同調興奮も無さそうだと九鬼が胸を撫で下ろしたのは、注射を打ってから十分後のこと。


「現在十三時四十五分、あと五分です」


その時だ。未だ錯乱状態が続いている彼は、スタッフの腹を蹴り、左足を振り解く。スタッフはその場で蹲り、咳き込んでしまった。


「踏ん張って!」、と言いながら、九鬼は駆け寄り、左足を封じる。


踵が入った腹は、中の物が吹き出しそうな程の衝撃である。

咳が落ち着くと、右腕で腹を抱えながら、左腕にはめている腕時計を確認し、皆にこう伝えた。


「あと、三分」


後二分、一分、五十秒…


腹をさすり、ゆっくりと立ち上がると、左に向いている彼の顔を覗き込む。


虚な目をした彼に、「大丈夫かい?」と声をかけた。すると彼は、ゆっくりと頷く。


彼の体重がずしりと重くなる感覚が伝わると、皆力を緩めた。


友良は彼の両脇に腕を差し込み、身体を支えると、彼にこう言った。


「頑張った、頑張ったね」


一人はズボンを上げてやり、友良と他二人はベッドに彼を横たえてやる。


九鬼は使用済みの注射を持っていき、適切に処分した後、パルスオキシメーターと血圧計を持ってくる。


蹴られてしまったスタッフに九鬼は、今すぐ先生に診てもらうようにと伝えた。


彼は朦朧とした中、左手をゆらゆらと上げ、小さな声でもつれ気味に言った。


「ごめ…んなさぃ…」


蹴られたスタッフはニカッと笑う。


「意識レベル良好、もう大丈夫だね」


頭を押さえていたスタッフが揶揄うように言う


「日頃言ってるだろ?鍛え方が甘いって。そんな細マッチョじゃやってけねぇぞ」


「嫌ですよ、お二人みたいにゴリゴリのゴリラマッチョ、女の子にモテないもん。ねぇ、九鬼さん?」


九鬼はパルスオキシメーターを彼の指にはめて答える。


「お相手によるんじゃないですかねぇ、ねぇ加藤さん?」


「私はゴリゴリのゴリラマッチョ、好きですけどね、ねぇ湊くん?」


友良は横たわる彼に視線を向ける。


「…オレ、すかぁ?…」


そう彼は言って、柔らかく微笑んだ。



新設されて初めての興奮症状に対する危機介入で、男性看護師一名の軽症者を出した。

他スタッフ、患者への他害は認められなかったが、インシデントとして報告は上がる。


そして数日後、師長は男性スタッフ及び特殊者スタッフの増員を要請した。

九鬼《くき》 伊織《いおり》

性別:男

年齢:32歳

職種:看護師(特殊)

好きな食べ物:ハンバーグ

最近言われたこと:加藤さんから「化け物ですか」と言われた。

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