九月二十日
東京都第一地区。
都庁があり、日本有数の歓楽街がある。
そして日本全国で利用者数が最も多いと言われる、第一中央駅がある。
一日約三百万人が利用している第一中央駅から一駅の、東窪駅を下車し、北へ八分ほど歩くと、閑静な住宅街に出る。
たった一駅で装いが変わるのも、外国人にウケる一つの要素だろう。
そんな喧騒から切り離された住宅街に、縞田クリーニング店はある。
空色をした、可愛らしいドーム型のテント看板が目印だ。
家族経営で、二代目店主は御年八十歳の現役である。
初代店主から贔屓にしている顧客も多く、選り好みせず顧客を獲得してきたせいか、世間から逸脱した方々を相手にすることも少なくはない。
「ウチの孫嫁。あの娘は大したもんだ。小さいくせに力持ちで、肝も座ってる」
そう二代目に言わしめたのは、秋と冬葉が籍を入れて半年後の出来事だった。
その日はインフルエンザの猛威にやられ、秋とその父、三代目が、共倒れする事態に陥っていた。
そしてその日は、渡世人へ配達があった。
物騒な客への配達は、共倒れ中のこの二人が担っている。
仕方なく秋は、配達が一週間遅延する旨の連絡を入れようとしていた。
そんな中、二代目が動いた。
「お義父さん止めて!」という母の声に、秋は受話器を置き、冬葉は様子を伺いに行く。
そこには、ワゴン車に配達品を詰め込む二代目がいた。
二代目は母に言った。
「紗栄子ちゃん。このスーツがクリーニングに出されたという事は、今日は勝負の日なんだ」
「そんなに大事な日なら、舎弟にでも取りに来させればいいじゃない」
「それは駄目だ。このスーツが出た日は、帝桜ホテルに納品しなくちゃならない」
冬葉は一連のやり取りの中、二代目の表情と行動を注視する。二代目からは、焦燥と恐怖が伺えた。
冬葉は二人の間に割って入り、二代目の前に掌を差し出し言った。
「私が行くから、車の鍵、出してください」
丁度その時、熱と関節痛で鉛のように重たくなった足を運ばせて、秋が現れる。
冬葉の言動に驚いたのか、それともインフルのせいなのか、思わず咳き込むと、弱々しく冬葉を止めた。
「ダメだよ冬ちゃん」
紗栄子も「ダメダメ」と慌てた様子で加勢する。
そんな秋を見て、冬葉は冷静に言った。
「駄目って、今駄目になってるのは秋ちゃんでしょ」
紗栄子は、秋の言葉を代弁するように答える。
「駄目なのは冬ちゃんよ。何処の誰に納品するか解ってるの?危険すぎる。だったら私が行く」
冬葉と紗栄子の間に嫁姑問題はなく、常にフラットな関係である。
秋の性格は母親に似ている。おおらかで温厚で笑うと愛らしい。
そんな紗栄子の眉間に人差し指を当て、冬葉こう言った。
「お義母さん。皺増えますよ」
「なっ、冬ちゃん!私は真剣に-」
「わかってますよ」
紗栄子の言葉を遮ると、冬葉は続ける。
「でもね、恐らくだけど、今日配達出来なかったら怖い目に遭う気がする」
秋は冬葉の視線を追う。
その先には、インフルエンザに罹った自分よりも、血色の悪い顔をした祖父がいた。
秋は言う。
「やっぱり俺が行くよ」
冬葉は上目遣いで、キッと睨んだ。
「いい? まず秋ちゃん。その体で運転?人に迷惑かけるかも知れないのに?事故起こしたらどう責任とるの?インフルエンザでしたすみませんじゃ済まないよ」
冬葉は義母の方に視線をやる。
「次にお義母さん。ペーパードライバー歴は?」
「えっと、恐らく二十うん年、かな…」
「ハイリスク」
最後に二代目へ足先を向け、畳みかけた。
「免許返納済み以上!」
シューっと息を吐くと、二代目の前に、再度手を差し出す。
二代目は「すまない」と言いながら、車の鍵を冬葉の掌に乗せた。
秋は困った表情で冬葉に近寄ると、目を見つめこう言う。
「解ってるの、冬ちゃん」
「重々承知」
「やっぱり俺も-」
「大丈夫だから」
そして冬葉は、トランクを閉めこう続ける。
「そのイワクツキの配達で、過去に何かされた?」
「いや、何も…」
「じゃぁ心配することないね」
「安直だよ」
冬葉は秋のお尻を軽く叩き、「その時はダッシュで逃げる」、と答えた。
「じゃぁ、行ってくるから」
冬葉は運転席に乗り込み、ドアを閉める。
窓越しに「気をつけるんだよ」と、秋は言った。
そんな秋に笑いかけ、エンジンをかける。
店を後にすると、心拍が上がった。
怖く無い、わけじゃない。
第七地区にある帝桜ホテルまで、車で約三十分。この間、冬葉は呼吸を整えた。
どんな悪人が出てくるのか、背格好は、仲間の人数は、もし危ない目にあったらと、思いつく限りのことをシミュレーションする。
相手に同じ特殊性を持つ人間がいたら、上手く逃げ切れるかな……。
そんな不安は、裏を返せば、特殊性のない人間相手であれば、上手く逃げ切れるという確証でもある。
ガスが撒かれてから八年後、特殊性を持つ人間は、四年に一度の国際スポーツ祭典の出場枠から外され、プロスポーツ選手への道が閉された者もいた。
特殊性は即ち、ドーピングである。
その圧倒的な身体能力は、現在活躍している選手をも到達できない、神の領域であると、国際体育連盟の議長が発表した。
冬葉はその神の領域に、足を突っ込んでいるどころか、頭のてっぺんから足先まドップリ浸かっている特殊者である。
ただの悪人であれば、逃げ切れる自信があるのも、悲しいかな、特殊性が備わっているからだ。
こんな時にしか恩恵を感じられないなんてね。と、冬葉はハハッと嘲笑した。
そして、帝桜ホテルに到着する。
業者専用の地下駐車場に案内され、空いているスペースに停車する。
エンジンを切り、シートベルトを外すと、心の声が漏れ出す。
「着いちゃった」
大きく深呼吸し、乱れた心拍を整えると、車から降りた。
車の後部に回り込み、例のスーツと伝票を片手に持つと、背伸びをして、もう片方の手でトランクを閉める。
鉄砲でも、危ない薬でもない、綺麗になったスーツをただ届けるだけなのに、ヤバイ物を運んでいる気分になる。
業者専用駐車場のエレベーター横にある警備室の小窓に顔を覗かせると、警備員のお兄さんと目が合った。
小窓が開くと、冬葉は要件を伝える。
「縞田クリーニング店の縞田と申します。一丸和美様へ、スーツのお届けに伺いました」
「かしこまりました。確認いたしますので少々お待ちください」
お兄さんは受話器を上げ、フロントに連絡をとった。
「-えぇ、はい、わかりました」と、通話を切り、お兄さんは笑顔で言った。
「お品物を直接お部屋まで届けて欲しいそうです。お部屋番号は505号室となります。ここに入館理由のチェックと、業者名、配達にこられた方のフルネームをお願いします」
出されたタブレットに視線を落とす。
タッチペンを手に取り、入館理由の「納品」にチェックを入れ、業者名とフルネームを手書きで入力していった。
「はい、できました」と、お兄さんにタッチペンを渡すと、入力漏れがないかチェックをする。
「ご入力ありがとうございます。こちらが入館許可カードです。カードキーとなっておりますので、エレベーター横にありますパネルに翳して頂いてから、エレベーターのボタンを押してください。お帰りの際は必ずこちらまでカードの返却をお願いします」
ケースに入った入館許可カードを首からぶら下げる。
お兄さんの言う通り、パネルにカードを翳した。『解除されました』という音声を聞くと、エレベーターの上ボタンを押す。
程なくして、扉が開いた。
「505、505」と言いながら、五階のボタンを押すと、ゆっくり扉が閉まっていく。
それは道草を食うことなく五階まで上がっていった。
いざ行かん。
ワインレッドのウールカーペットに足を踏み入れると、静寂に包まれる。
ブラケットライトの明かりが、フロアを優しく照らしているが、冬葉には異様な雰囲気に感じた。
スーツ渡して伝票にサインもらって帰るだけ、
スーツ渡して伝票にサインもらって帰るだけ-
心の中でそう反芻しながら、505号室のドアノッカーを三回叩く。
十秒経った位か、ノックの音が弱かったのかもと、再度ドアノッカーに手をかけようとしたその時だ、扉が開いた。
「ごめんねー電話してたもんだから、って、あれ? 秋くん、ではないね」
と、視線が下へ向く。
「子供?君、だれ?」
五十代と思しき男性であった。
眉と目が近いからか、彫りが深い印象を与え、
彫刻の様に刻まれた口元の皺は、渋い魅力を感じさせる。
ただ、一見優しそうに見えるその目は、鋭さを孕んでいた。
「あっ、あの、縞田秋の妻です。夫がインフルエンザに罹りまして、本日は私が代行で馳せ参じました」
「えっ!奥さんなの!?やだ初めましてー。
聞いてると思うけど、改めて挨拶させてね。
一丸和美と申します。宜しくね」
距離を縮めて言う一丸に、気圧されそうになる。
冬葉は両足に力を入れた。
「はい。こちらこそ宜しくお願いします。縞田冬葉と申します」
「冬葉さん、冬生まれなのかな? 綺麗な名前だね」
「ありがとうございます」
「ささっ、こっち入って。奥のクロゼットに吊るしてくれる?」
「えっと、奥…」
冬葉が一瞬躊躇うと、一丸は微笑んだ。
「取って食いやしないよ」
「いや、その…」
「良いから早く入って。伝票にサインも必要でしょ?」
冬葉は促されるまま、足元を見ながら恐る恐る入室する。
「お邪魔します」と呟き、視線をあげた。
古い木の香りが仄かに漂う。
天井には大きな丸いライトがぶら下がり、ぼんやりとした黄金色の明かりが部屋を包み込んでいた。
マホガニー素材でできたアンティーク調のベッドには、上質な眠りが約束されている羽毛布団が整えられている。
窓には重厚感のあるブロンズブラウンのカーテンがかかっていた。
それは光も音も通らない、外界の一切を遮断していた。
一丸はベッド横にあるクロゼットを開け、「ここにかけてね」と言った。
冬葉は「では」、と、スーツをそっとかける。
クロゼットを閉めると、一丸へ向き直り、伝票とボールペンを差し出した。
「受領サインをお願いします」
一丸はそれを受け取ると、サインを書き、冬葉に渡した。
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
お辞儀をし、扉へ向かう。
背中に穴が開きそうなほど、一丸の視線を感じる。
ノブに手をかけると、一丸が呼ぶ。
「冬葉さん」
「何でしょうか」
ゆっくりと上半身を捻り、一丸を見た。
「次から冬葉さんが配達に来てよ」
「えっ?」
「よろしくね」
ノブから手を下ろし、つま先を一丸に向ける。
鼻からたっぷりと息を吸い、口から吐き出す。
「いいですよ。条件を呑んでくれたら」
「条件?」
「簡単なことです。今後は他のお客様と同じ対応を取らせて頂きます」
「同じとは?」
「例えば、やむを得ない事情による配達の遅延または延期にご了承頂くとか」
「なるほど」
「どうされます?難しいようであれば、他をあたって下さい」
一丸の左口角が、ほんの僅かに上がる。
冬葉の背中に寒気が走る。
うわぁ…この人、ナルシストだ…
そう思った瞬間、冬葉は営業スマイルをみせた。
そして一丸は答えた。
「先代が勝手に作った狭量なルール、僕は踏襲するつもりはないよ」
冬葉は一丸の表情と態度から、この言葉に嘘は無いと判断する。
「ありがとうございます。では、次回配達に伺う際、店のリーフレットも併せてお届けしますね」
そして、冬葉は部屋を出た。
息をゴクリと飲み、喉の奥から魂が抜けそうになるのを抑える。
あれから二年経った。
帝桜ホテルへの配達はいつも、あの苦い思いが込み上げてくる。
そして九月二十日の今日、例のスーツを届けにいく。
帝桜ホテルの地下駐車場に配達車を停めた。
魂が抜けないように、冬葉は大きく息を吸い、ゴクリと喉を鳴らす。
一丸 和美
年齢: 53歳
身長: 174㎝
職業:カタギでは無い
近況:散髪をした。冬葉さんの「お似合いですよ」の一言が待ち遠しい。




