九月二十日
秋と冬葉が二人で使うベッドは、シングルのロングサイズを二台並べたものだ。
大きな秋もスッポリ収まり、寝返りも打てて、二人の距離感も保てる。
そんなベッドで、二人は横になり、向かい合わせで、今日の締めくくりを迎えていた。
一丸さんへスーツを配達しに行った日の夜はいつも、ベッドの中で、その日あった出来事を報告してくれる。
冬ちゃんの手を握って話しを聞くことしか出来ないけれど、その手から伝わる緊張が解れていくのを感じると、この報告は、ストレスを和らげる大切な行為なんだと認識できる。
一丸さんが散髪をしたらしく、物欲しそうな目でコッチを見るから、「髪切ったんですね。お似合いですよ」と、欲しい言葉をくれてやったそうだ。
「そうそう、音楽かけてた」
「どんな?」
「昔流行った曲らしい」
「一丸さんが音楽か…想像つかないね」
「でしょ?私も初めてみる光景だったから思わず聞いちゃった。曲の名前」
「聞いちゃったんだ」
冬葉は苦笑しながら頷いた。
「その曲の名前が、“インファチュエイション”、直訳すると“夢中になる”だってさ」
「うん、なんか想像ついたかも」
「聞いてもいないのに、自分語りが始まっちゃって」
「あーやっぱり」
「若い頃、夢中になった女性がいたんだとか、その女性もまた、自分に熱を上げていたんだってさ。俄かには信じがたいし、せっかくの良い曲があの方のせいで台無し」
「曲は良かったんだね」
「うん。曲に罪は無い」
一丸さんのその情熱的な恋愛話しが完結したのは、話し始めてから二十分後。
話半分で聞いていたためか、その二十分間、今日の夕飯のメニューはどうしようか、とうい記憶で上書きをしていたらしい。
因みに、今日の夕飯は唐揚げだった。
「一丸さんからやっと解放された」、が、話しの尻尾だと思っていたけど、今日は違った。
「一丸さんの部屋を出た直後さ、お客様用のエレベーターが開く音が聞こえてね、親子?が出てきたんだよ」
「ありふれた光景じゃない?」
「そう。本当にありふれた父と子の光景。だけどね、うーん…」
冬ちゃんの掌から、緊張が戻ってくる感覚が伝わる。
「どうしたの?話してみて」
「小学一、二年生くらいのアジア系の男の子だった」
「日本人ではないんだ」
「定かじゃないよ、でも、東アジア圏ではないかな」
「父親の方は?」
「父親も同じく」
「親子に見えたんだよね?」
「二人ともホテルのTPOを弁えてる身だしなみだったし、確かに違和感は無かったんだけど…」
「何があったの?」
「すれ違う時ね、男の子の手が軽くぶつかったんだよ。男の子がさ、私の顔見てソーリーって言ってくれた。そに表情も嫌味のない柔らかな印象だった」
「躾の行き届いた良い子だね」
「うん。とても良い子…、でもちょっと気になる仕草があって」
冬ちゃんは、男の子とぶつかった一瞬の仕草を真似て続けた。
「手がぶつかって、男の子は咄嗟に自分の胸の辺りで手を上げた。私の顔を見て、ソーリーって言う時、こう言う動きをしたの。その時は何とも思わなかったんだけど、一丸さんの話しをしてたら、ふとね」
その動きを見た瞬間、僕は目を丸くした。冬ちゃんの手を離し、体を起こす。
冬ちゃんも僕の動揺に驚き、一緒に起き上がった。
冬ちゃんがやった仕草を、僕は再度やってみせる。
掌を冬ちゃんに向けた。
親指をその掌の上で折る。そして、その親指を包む様に他の指も曲げ、グーの形を作った。
「冬ちゃん、これね。“助けて”のサインだよ」
「えっ」
「冬ちゃんが知らないって言うことは、日常で目に触れる機会がなかったんだね」
冬ちゃんはベッドから足を下ろした。
猪突猛進してしまう前に止めなくちゃいけない。
「ちょっと待って、警察に届け出よう」
「警察?証拠も何もない状況で動いてくれると思う?」
「今は確証が無くても動いてくれるよ。ましてや小学生くらいの男の子が犯罪に巻き込まれているかも知れないんだ」
「犯罪の行なわれている場所が治外法権でも?」
冬ちゃんの正面に回り込み、両手を包み込んだ。
焦燥が伝わってくる。
「治外法権でも、何か手立てはある筈だから、警察の手を借りよう。僕も一緒に行くから、お願い」
冬ちゃんは、怪訝そうに、でも、頷いてくれた。
「ありがとう。じゃぁ、行こうか」
僕たちは寝巻き姿のまま、パーカーを軽く羽織り、配達者に乗り込み出発した。
帝桜ホテル近辺を管轄している警察署へ向かう。
会話は一切ない。張り詰めた空気が車中を覆った。
僕らが住んでいる賑やかな第一地区とは違い、東京第七地区は華やかなエリアと、高級住宅街のエリアに別れている。
僕の偏見だけど、第七地区の住人は、庶民的感覚が無い。
第七地区に入ると、風景はガラリと変わる。
それは警察署も同じだ。
やはり第一地区の警察署とは匂いが違う。匂いがしない、の方が適当か。
夜間通用口から警察署へ入り、当直の警察官が対応をしてくれた。
通された相談窓口には、優しそうな定年間近のおじさん警察官が座っていた。
薄暗い灯りに、「節電でね、ごめんね」といい、パイプ椅子に腰をかけるよう促した。
僕が座るとパイプ椅子が軋む。
「大きなお兄ちゃんと、小いこいお姉ちゃんか。どうした?痴話喧嘩か?」
「違います」
冬ちゃんの冷ややかな声がピシャリと言った。
僕は慌てて、ことの経緯を一から説明する。
「-その妻がぶつかった男の子なんですが、この様なハンドサインを」
「成る程、SOSサインだね」
「えぇ、男の子が犯罪に巻き込まれている可能性があるので、早急に対応をして頂きたいです」
おじさん警察官は、パソコンのタイプを止めると、こう言った。
「明日の午前九時にまた来てくれるかな」
冬ちゃんの怒りがとうとう漏れる。
声を荒げず、淡々と怒るのだ。
「未成年の、七歳ほどの男の子ですよ?暴力や性犯罪に巻き込まれている可能性が想像できないと」
「申し訳ないが、今は専門職員がいないんだ」
「警察官は専門職では?」
たおじさんは険しい表情に変わった。
「君、あのホテルがどんな所か知らないのか?」
「治外法権ホテル。無知なバカ夫婦だとでも思いました?」
「あぁ、まだ無知だな」
その言葉がトリガーになり、冬ちゃんの言葉の乱射が始まる。
「日本の警察は原則立ち入ることはできないし、逮捕も捜査もできない。原則なんて言葉がついてるけど、例外なんて一度も適用されてない。あなたの言う専門職員がいたとして、できることと言ったら、精々ホテルから出てきた犯人を捕まえて、書類送検として処理する程度。外交的にちゃんと手順を踏みたいのも解りますが、外務省を通じて国際協力を依頼している間に、男の子が被害に遭っていたとしたら、どこの国が責任の所在を問われるかは明確です。さてそうなった場合、アナタは真っ先に初動の対応が指摘されます。国民の怒りにふれたアナタは、snsで顔と住所が晒され、家族親戚にもその火の粉が飛んでくる始末。それでも、明日の朝来いと?」
冬ちゃんと警察官の間に数秒の沈黙が流れた。こういうときの僕は、堪え性が無く、つい口を開いてしまう。
「冬ちゃん、最後のはちょっと飛躍し過ぎかも」
おじさん警察官が冬ちゃんをじっと見ながら言った。
「これは脅しか?」
「想像すれば簡単に解ることです。想像力の足りない人がこうして警察官になれるなんて世も末ですね」
冬ちゃんの煽りに冷静でいられる人、初めて見たかもしれない。
幾度となくこういう場面を経験してきた警察官だからだろうか、アンガーマネジメントがしっかりとできている。
「成る程。信用していない警察に足を運んだのは、君、旦那さんのおかげかな?」
警察の人に目を見られるとドキリとしてしまうのは、僕だけだろうか…。
「警察の手を借りようと言ったのは僕です。あー、でも、警察にも今困っている人を助けられないことってあるんですねぇ」
すると冬ちゃんがプッと笑った。
警察官のおじさんを見ると、顔を真っ赤にさせている。
おじさんの内なる地雷を踏んでしまったようだ。
明確に手立てが無いとは言ってないけど。
明日午前九時に来たとて、国のルールに則り、治外法権という立ちはだかる壁を越えなくちゃいけないというのは、やっぱり冬ちゃんの言う通り、初動が遅いわけで、警察は今正に困っている人を助けられないってことになるよな?
動きたいのに動けないジレンマがあるのも大変だなぁって思って出た言葉なんだけど…
「すみませんねうちの夫が、純粋なもんで。たまにね、こういう素直な気持ちが言葉に乗るんです。可愛いでしょ?」
おじさん警察官は胸を大きく膨らませ、息をゆっくりと吐き、僕たちを見据えて言った。
「とにかく、明日の午前九時に来て。そして絶対に、無茶なことはしない様に。
それとあと。ほんの少しでもいい。
警察を信用して下さい」
おじさんは立ち上がると、深く頭を下げた。
次の日の午前九時、僕たちは再度、おじさんの居る警察署へ足を運んだ。




