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九月十二日

春は電車の椅子に腰掛け、何をするでもなく、日の出をぼうっと眺めていた。


その斜光は、何の変哲もない、ごくありふれた住宅街を、情感的に引き立たせる。


人が疎らな車内で、車窓のそんな一場面を眺めていると、一人取り残された感覚に陥るのは、今日が初めてじゃない。


そして決まって、多感だった十代を回顧するのだ。


***

あれは十六歳の冬だった。

俺は彼女を助けるために鬼退治をした。


鬼は彼女に跨がり、彼女の衣服を引き裂き、彼女の柔肌を傷つける。

十一の頃から何度も何度も何度も何度も-。

そして彼女の心は融解できないほどに凍った。


俺は鬼退治をしたんだ。


鬼を確実に仕留めるため、顎殴り、その次はみぞおちに、そして不能になるまで股関を蹴り上げ踏み潰す。


彼女にダウンジャケットを羽織らせ、手を引き、冬の夜道を一緒に走った。


彼女は「ありがとう、ヒーロー」と言って、泣きながら笑う。

頬に赤みが差す彼女の頬を覆って「もう怖くないよ」と俺は言ったんだ。


そして鬼は社会的にも退治された。

それを手伝ったのは、鶴羽さんだった。


彼女との交際は順風満帆で、この穏やかで優しい時間が続くと信じて止まななかった。


そう。何で、何故気づけなかったのだろう。

鬼はもう一人いたんだ。


それは彼女の母だった。


鬼退治後、彼女は母親と引越しを行い、高校を転入し、母親の姓を名乗って暮らしていた。


母親のいないところで行われていた鬼畜な所業に対し、憤怒し、娘を守れなかったことへの悔しさ、そして償いを口にした。

膝に乗せている拳を震わせ、激昂しそうな声を必死で抑え、彼女に真摯に向き合う姿勢は、誰がどう見ても、母親も被害者では、という意識を植え付けた。


赦しを乞うことは一切せず、過剰に泣くこともない。


「こんな目に合わせたアイツを八つ裂きにしたい」


そんな怒りに震える母をみて、彼女は母親と暮らす選択をした。


その選択を止めてさえいれば、彼女は今も隣で笑っていたはず。


俺は友良みたいに、嘘発見器のような特殊性を持ち合わせていない。

あの時、母親が法廷にたったあの時、友良を連れて行けば状況が変わっていたのだろうか。


七月のある日、友良は、彼女との何の気無しの会話の中に、少しの歪みを見つけた。


友良から、「彼女、大丈夫そう?」と言われたあの日、沸騰しそうな感情を抑え、彼女を問い詰める。


すると彼女は笑みを溢し、こう言った。


「アイツを八つ裂きにしたい。そのアイツってね、どうやら私のことらしい」


防衛反応で人は笑みを溢すことがあると、鶴羽さんが教えてくれたことを思い出す。

そして、面の様な人間には気をつけろと言われていたことも。


面の様な人間、それは正しく彼女の母親であった。


旦那に依存し、執着し、旦那だけを愛した。


彼女が生まれても何の感情も沸かなかった。

虐待と言われる行為は、離婚のリスクもあるため、娘を健やかに此処まで育ててきたと。


その旦那が実の娘に手を出していたと聞き、腑が煮え繰り返った。


-私より、

   アイツの方が魅力的だなんて許せない-


母親は法廷で、「八つ裂き」という表現で、身勝手な復讐宣言をした。


復讐は宣言通り進められていく。


母親は過去を悔い、娘のような子を少しでも減らしたいという名目で、NPO団体「みらいネットワーク」に所属した。


主に、虐待や複雑な家庭環境によって居場所のない未成年の保護や、心のケア、福祉行政に繋げる活動をしている団体である。


彼女は、「表向きはね」と、抑揚のない声で言った。


「ママがね、アナタも来てみる?って言ったの。ママがその団体で一生懸命活動していることも知ってたし、行ってみたんだよね。そしたらさ、子供に寄り添うママの姿見たらさ、

あぁ、ママがママで良かったんだって思えたの」


その日を境にして、彼女の思いとは裏腹に、復讐計画が本格始動する。


彼女も団体に参加する機会が増え、活動を手伝うなど、充実感を覚える日々を送っていた。


「先月頭かな。催し物の準備で忙しくてね、二十時回ってたかな、遅くなるから先に帰ってなさいってママが。そしたらね、夜道は危ないからって、女子大学生の五月女(そうとめ)さんが車で送ってくれることになったの」


五月女は団体の拠点が見えなくなるのをフロントミラーで確認し、彼女にこう言った。


すいちゃん。今すぐママから逃げた方がいい」


彼女はどういうことかと尋ねた。

五月女は、「私のバッグからスマホ出して」と指示し、彼女は怪しいと思いながらも、言われた通りスマホを取り出し、五月女の口から出てくる六桁の暗証番号を打ち込む。


画像フォルダの、“みらい”というファイル開いて中身を見てくれと言われ、ファイルトップにある動画を再生した。


「その動画にはね春くん。


人身売買と買春斡旋の手引きをしてるママと、ママの同僚が映ってた。


しかもね春くん。


海外のVIPなお客様に私が上納されるらしいんだ」


スマホには、五月女が命懸けで撮ったであろう顧客リストも収められていたらしい。


「あのね春くん。福祉に繋がる子は、まだ親が見捨ててない子、それか名のある親の子だけ。居なくなっても騒ぎ立てない親の子と、虚言癖のある子供はね、悪い大人に搾取される」


両親に見捨てられた彼女の心は、ママの思い通り、ズタズタに引き裂かれた。


“虐待”という言葉の意味も、種類も、被害者がどうなってしまうかも、ちゃんと学んできたつもりだし、大好きな彼女がその当事者ということもあり、誰よりも理解が進んでいると思い込んでいた。


母親が嫉妬し、復讐のために娘を売る。


当時の俺にとって、理解の外側、宇宙人の領域にまで及んでいた。言っていることも、やってることも何もかも理解できない。


誰でもいい、大人を頼りたかった。


真っ先に思い浮かんだのは両親だったが、危険な目に合わせたくない。

じゃぁ誰だと、次に浮かんだのは鶴羽さんだった。


彼女の手を握り、「大丈夫」と声をかけ、鶴羽さんに連絡をする。


鶴羽さんは「家へ来い」と言ってくれた。


鶴羽さんの奥さん、葵さんは、ニコニコしながら、そしてウキウキしながら、彼女を出迎えてくれた。


毎日の献立を考えなくちゃと、張り切っていたんだとか。


そして彼女の雲隠れ生活が数日過ぎ、少し会話を重ねるようになると、事情は聞かないのか?と、彼女が葵さんに尋ねてみた。


「事情を聞いたところで、私にはご飯を作ることしかできないわ」


そう答えたそうだ。


鶴羽さんが休暇の時に、彼女は外に出られた。近くのスーパーで買い溜めをし、葵さんと夕飯を作るまでの仲になる。


八月十五日、俺もお呼ばれし、みんなでカレーを作って食べたのは、楽しい刹那に過ぎなかった。


そして、九月のアノ日がきた。


みらいネットワークが児童買春と人身売買で摘発され、団体のトップと幹部が逮捕されたというニュースが放映される。


彼女は葵さんの胸で小さな子供の様に泣きじゃくった。「ママが、ママが」と言いながら。


酷いことをされてもなお、母親が逮捕されてショックを受ける。これは洗脳とも言うらしいが、違和感があった。


両親から貰った愛情や躾けが、当たり前の基準だと思っている。形が違えど、それは彼女と同じだ。


ママが偽りのママであれ、優しくて強いママは彼女の基準となり、彼女を形成した。

そんな当たり前が目の前から無くなるのは、恐ろしくもある。


ちょっとずつでいい。

彼女と一緒に歩もう。


葵さんがいる中、泣きじゃくる彼女に


「翠、俺がずっと翠のヒーローでいるからね」


と、プロポーズめいたことを言った。


-いや、いや違う。

 あれは正真正銘プロポーズだ。


彼女は埋めていた顔をあげ、「うん!」と、満面の笑みで応えてくれた。


あの笑顔が最期だった。


---

九月十一日、午前八時丁度。

第一発見者、鶴羽天翔。


鶴羽帰宅時、玄関のドアは開いていた。

二階に上がると、妻の葵と、覆い被さる形で松本翠(十七歳少女)が倒れているのを発見し、警察と消防に連絡。


死因は刺殺。

一階、二階ともに物色されている痕跡あり、二階寝室にあった通帳、カード、貴金属類は全て盗まれていた。


強盗殺人として捜査を進める。

防犯カメラに映る犯人、指紋、血液も採取できた。証拠は揃っている。あとは首根っこを掴むだけとなった。


犯人は藤井拓馬(ふじいたくま)二十一歳、コンビニでアルバイトをしながら生計を立てている。


朝七時、礼状を持ち、藤井が住むアパートのインターホンを押した。

音沙汰の無い、気味の悪いしんとした静けさに、強行突入を決行する。


そこにいたのは、首を吊った藤井であった。


死人に口無し。

捜査を深く進めていくと、流動型犯罪グループの末端の末端として犯罪に手を染めていた事がわかった。


スマホの履歴で指示役が逮捕され、芋づる式に海外に拠点を置いている主犯格も逮捕された。


メディアは流動型犯罪グループを大きく取り上げ、社会問題として提起した。


そして、葵と松本翠が殺された一年後、松本翠の母親、松本恵美子が、更に二年後、団体のトップ、田中俊樹がひっそりと獄中死した。


死因は共に心不全である。

---


***


彼女が死に、自分の世界は十七歳で止まったままだ。


友良も夏生も病院に行くことを勧めてくる。


頭ではわかっている。

二人が同じ状況だったら、病院に行ってケアをしろと、俺も言う筈だ。


夏くんに、今のままで結果満足と言ったのは、九月のアノ悪夢に、必ず翠が現れてくれるから。


抱きしめて頬擦りして、あの笑顔を見せてくれると、砂になって消えてしまう。

砂をかき集めてもかき集めても、元の翠には戻らない。


「元に戻らないんだ。わかってるんだよ」


そうポツリと言い、電車を降りた。


南口の改札を抜け、地下鉄へ乗り換えるため、階段を降り潜っていく。


改札にスマホを翳した直後、電話がかかってきた。


「もしもし」


電話口の女の声が淡々と言う。


「すみません。今日そっちじゃないんですよ」


「じゃぁどっちでしょーか?」


「環状線の方です」


「デジャヴなんすけど。この前も同じことありましたよね。乗り違えた電車代出してくださいね」


女は何も言わずに、通話を切った。


「…いやちょっと待て、環状線のどこ駅ですか」


「人使い荒いんだから」と文句をいい、踵を返して引き返す。



さぁ切り替えていこう。

お仕事の始まりだ。


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