九月十一日
新月の夜、風はまだ湿り気を帯びている。
春は、コンビニで買ったプリンが入っている袋をぶら下げ、マンションの階段を軽快に上がっていた。
三階に到着すると、右に曲がり、奥の扉から二番目にある、三◯四号室の呼鈴を鳴らす。
数秒後、「はぁーい」と気怠いそうな女性の声がインターホン越しに返事をした。
「オレだよオレオレ」
「誰だよダレダレ」
「んもぅ、わかってるくせに」
「今日来るって聞いてない」
「ちゃんと言ったよ」
「はぁ?……って五分前じゃん…。
取り敢えず、帰ろっか」
「えぇーっ、ケチー。来る時は事前連絡するって約束守ってるよ?」
春がゴネていると、遠くの方から「ねぇねぇ春くん?」と言う可愛らしい声が聞こえた。
「春くんだよ!芽生!開けてお願い!芽生の好きなプリンも買ってきたよ!」
「だぁーもう」と聞こえると、通話は切れる。
八秒ほど立ち尽くしていると、扉が開いた。
「芽衣ちゃーん」、と、少し屈んで両手を広げる。
出てきたのは、春の両腕に収まりそうにない、純粋無垢な子供とは真逆の、不純塗れの成人男性であった。
そのままの姿勢で目線を上げ、こう言う。
「夏くーん」
夏生は見下ろして、こう返した。
「プリンだけ置いて帰れ」
「そんなこと言わないでよぅ」
すると、こちらに来る小さな駆け足が聞こえた。
夏生の両脚の間から顔を出し、芽生は春を見てニッコリと笑う。
春の目には掬いの天使に見えた。
「父さん、春くん可愛そうだよ。お家に入れてあげてよ」
娘に嫌われたく無い夏生は、溜め息を吐き、渋々春を家にあげる。
十九時四十分を回った。
決して広くは無い2LDKの部屋に成人男子が一人増えると、窮屈さを感じる。
芽生の隣りに腰をかける春は、買ってきた品物を取り出していく。
「芽生にはプリン。俺らはお酒」
と言いながら、プリン一つとフルーツ系の缶酎ハイを三本、ダイニングテーブルに並べる。
すかさず、友良はこう返した。
「芽生にはプリン。私と夏生くんはお酒」
そして、夏生はコップに注いだ麦茶を春の手元に置いて言う。
「春は、麦茶」
「えっ何で」という表情で夏生を見上げる。
そんな春に夏生はこう続けた。
「缶酎ハイ三分の一で酔うだろ、酒癖わるいし、仕舞いには記憶まで飛ばすだろ」
友良は夕飯の残りを鍋からよそい、白米と一緒に春に提供してやると、夏生の言葉を一部訂正する。
「缶酎ハイ四分の一でしょーよ」
鶏肉、ゆで卵、大根を使った煮物に、春は視線を落とす。
「友良、悪いけど俺、ご飯の気分じゃない」
「悪いと思うなら食べなっせ。それとも何?吐き気でもする?なら今すぐ病院に行って」
春は肩を窄め、お箸を手に持ち、大根を挟んで口に運ぶ。二噛みすると「おいちぃ」と呟いた。
結局、モリモリとご飯を食べ、麦茶も飲み干した。
食後、芽生とテレビゲームで盛り上がる。
キリの良いところで芽生は風呂に入り、髪を乾かし出てくると、春はリビングの絨毯の上で横たわっていた。
芽生は春の顔を覗き込み、「春くん寝ちゃったよ」と、二人に伝える。
友良は、「寝ちゃったかー」と言いながら寝室へ行き、タオルケットを小脇に抱えて戻ってきた。
夏生は、リビングの小さなローテーブルを壁に寄せる。
友良は芽生にタオルケットを渡し、「春にかけてやって」とお願いした。
芽生はタオルケットを広げ、春の肩から足先までを覆ってやる。
夏生は芽生の頭をポンと撫で、「芽生も、もう寝なさい」と言った。
リビングの隣りの部屋が芽生の自室である。
自室の扉を開くと、芽生は夏生に向かって尋ねた。
「春くん、明日の朝いるかな」
「うーん、どうだろな。父さんにも分からないけど、いてくれると良いな」
「うん」、と、芽生は少しの期待を胸に、自室のベッドで眠りに着く。
友良は春の寝顔を見て、リビングの電気を落とした。
ダイニングの明かりだけが灯る中、夏生と友良
は春が買ってきた缶酎ハイの蓋を開ける。
向かい合わせで座り、缶を軽くぶつけて乾杯をした。
二人は滅多にアルコールを飲まないが、お酒への耐性は人並み以上だ。
友良は言った。
「年明けてさ、初笑いとか、初なになに〜って使うじゃん? 毎年九月がさ、私にとっての初酒なんよね」
「そっか。毎年の恒例行事だもんな」
「今日は夏生くんがいる日で良かったわ」
夏生は、寝息を立てる春を、ぼうっと眺めながら言う。
「性懲りも無く、毎年プリンと酒三本持ってきては、酒を没収されて-」
「んで、私の手料理を鱈腹食べさせてーの、芽生と遊んでーの、そのまま就寝」
「デカい子供が一人いるようだな」
「同意」
友良は酎ハイを一口喉に流し入れ、背をもたれて続けた。
「まぁ、一人で悶々とするよかマシか」
「お互い三十目前だけど、アイツは危うい十七歳のままだ」
友良は脚を組み、テーブルに肘をかけ、春を見る。
「十七歳に囚われてるのは春だけじゃないよ。
ずっとずっと、春をこんな風にした何処ぞの誰かを許せない」
沈黙が五秒間流れ、夏生は口を開く。
「この前さ、鶴羽さんが訪ねてきた」
「鶴羽って、あの、二人がお世話になった刑事さん?」
「“元”刑事になってたけど。五月三日のことが聞きたいと職場まで訪ねてきた」
友良は眉間をよせる。
「五月三日って、ストロベリーの件だよね?」
「そう。二十年前のストロベリーにも捜査員として関わってたみたいだし」
「定年後も尚ってやつか。相当未練たらたらじゃん」
「だろ? 俺もさ、友良と同じこと考えた。けど、どうも腑に落ちない」
友良は夏生を見る。
夏生もまた、友良の瞳を見据える。
そして、声のトーンを落とし、言った。
「鶴羽さんの未練は奥さんにある」
友良は視線を下に外し、「あぁ」、と、納得したのか、小刻みに頷き、こう続けた。
「今回のストロベリーは、鶴羽さんの未練と結びついてるってことっすか」
夏生は「恐らく」と返答すると、一呼吸置き、話しを進める。
「毎年九月に入ると、奥さんのお墓にガーベラが供えてあるんだって。心当たりは無いかと聞かれたよ」
「夏生くんは他人の好みなんて興味ないもんね」
「ご名答。だから、奥さんの好みを知ってる人じゃないかと答えた」
友良はふと、まだ若い春の声がリプレイされる。
- ガーベラってさ、食いもん? -
友良は眉尻を下げて言った。
「知ってるとしたら、亀ちゃんか、春だろうね」
互いにお酒をゴクリと飲み込む。
九月に飲むお酒はいつも、水っぽさを感じる友良であった。
その後二人は他愛のない会話をし、二十三時ごろ就寝する。
そして、お酒の作用でトイレに行きたくなった夜夜中。夏生は上半身を起こし、ナイトテーブルに置いた眼鏡を探り取り、装着した。
お腹を掻いて、大きな欠伸を一つ。
ベッドから足を下ろし、紗幕がかかったような視界の中、時折、指先で壁を触れながらトイレへ辿り着く。
用を足し、もう一眠りと、欠伸をしながら寝室へ向かっていた時だ。
喉を絞ったような唸り声が聞こえた。
夏生は目を細め、その声がする方へ足を運ばせる。その声は次第に、啜り泣く様子へと変わった。
夏生には、その声の形がハッキリと見えた。
今まで聞いたことのない形だが、認めたくない形だが、これは春の啜り泣く声である。
足元には、胎児の様に身体を丸めた、悪夢にうなされている春がいた。
「……春」
すると、隣の部屋の扉が開く音がする。
目を擦りながら、芽生が起きてきた。
「やっぱり泣いてた」
それは何度も見てきた様な口振りである。
「芽生、知ってたのか?」
芽生は春の背中に回り座った。
「うん。知ってるよ、ずーっと」
「母さんは?」
「母さんも知ってる」
夏生は春の正面に回り込み、ゆっくりと腰を下ろす。
「知らないのは父さんだけか」
「ナイショの話ね。春くんが泣いてたら、コッソリ母さんだけ起こしてって。父さんだとパニックになるからだって」
芽生が春の背中にそっと手を当てた。
我ながら不甲斐ないと、夏生は左頬を引き攣らせる。パニックになっていたのは強ち嘘ではないからだ。
「芽生、こういう時はどうすれば良いのか…」
「えっとね。何もしなくていいよ」
「え?」
「何もしないで、一緒にいればいいんだよ」
「あぁっ、わかった」
夏生は芽生にならって、何もせず、黙って側にいてやる。
暗闇に目が慣れ、春の横顔が認識できた。
眉間に皺を寄せ、目をグッと瞑り、浅い呼吸を繰り返している。
すると、息がヒュッと止まり、左手が伸びる。夏生が履いているスウェットの、脛辺りの生地を掴んできた。
そして掴むと同時に、口を大きく開き、息を深く吸った。
そこから徐々に安定した呼吸を繰り返す様になり、表情も柔らかくなると、スウェットを掴んでいた左手の力が緩む。
その様子を見て、芽生は言った。
「もう大丈夫」
夏生は頷き、春の左手をそっと移動させると、芽生に尋ねた。
「芽生、春がこんな風になって、怖くなかったか?」
「怖いっていうより、ビックリして固まっちゃった」
「そっか」
「あのね、母さんがね、トキグスリ?って言ってた。春くんの怖い夢がなくなるには、長ーく長ーい時間が必要なんだって」
「なるほど、時薬か。長ーい時間っていつまでだろうな…」
「うーん。いつだか分かんないけど、私はずっと春くんの大親友で、私のシショーだから、それでいいって思ってる」
「そっか」
縺れに縺れた心の蟠りを解く事は容易じゃない。そして、解くのは春自身でないと意味がない。
ここまで難しくは考えていないようだが、無知な様で芽生は、自身なりに考え抜いて出した答えなのだろう。
春を昔から知っている者であれば、誰だってこの現状を心配に思うだろうし、つい干渉してしまう。
恐らく春が欲しいのは、干渉ではなく、寄り添いだ。
春がどうであろうと、現状に満足しているからそれで良い、という芽生の利己的な発言は、誰よりも春に寄り添っている。
夏生はゆっくりと腰をあげ、春の横顔を見下ろした。
そして芽生は、そんな夏生の様子を伺う。
父親の露骨なまでに憂う表情を、芽生は初めて見た。それは、悪夢にうなされている春を初めて目にした時よりも、衝撃的である。
夏生は顔をあげ、「さっ、寝るか」と、柔らかい表情で言った。
それはいつもの父であったが、その瞬間、芽生の中で何とも言い難い、ほんの小さな蟠りがポコリと生まれる。
この蟠りは何かと、父に尋ねてはいけないような気がして、芽衣は微笑み、「うん」、と答えた。
夏生は浅い眠りを繰り返しながら、午前四時を迎える。
ベッドから足を下ろし、首の後ろに手を当てる。
夜中のアノ出来事は、相当なダメージだったらしい。と、今の状態を俯瞰した。
今日が休みで良かったと、ため息を一つ。
眼鏡をかけ、寝室をでる。
そして夏生は玄関の方に向き、声をかけた。
「春、もう行くのか」
「うん」
春は背を向けて靴を履いている。
夏生は玄関まで歩みを進めた。
「芽生、ガッカリするぞ」
春は靴を履き終え、こちらを向いた。
夏生は玄関の前で歩みを止め、壁に肩をつけ寄りかかる。
「今日は春くんお仕事だから、また今度埋め合わせするって言っといて」
夏生は鼻で笑った。
「仕事ってお前-」
言葉を遮り春は言う。
「うるさいなぁ。今日はちゃんと仕事なの」
「あーそうかいそうかい早く行け」
「言われなくても行きますわ」
春はドアノブに手をかけたが、ドアを開けるという次の動作を起こさない。
「どうした」と、夏生が声をかける。
春はゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐くと、背を向けたまま夏生にこう言った。
「夜中、ありがとう」
「は?」
「だから、側に居てくれたろ?俺がうなされてるとき」
「起きてたのか」
春は首を振る。
「いや、寝てた」
「んー、ん?」
「だから寝てたのは事実、第六感的な?眠り浅かったし」
夏生は懐疑的に、「そうか、そういうもんか」と返した。
「そういうもんなの、じゃぁもう行くね」
と、ドアノブを下ろすや否や、夏生の至極真面目な声を、久しぶりに聞く。
「春、病院には行かないのか」
春は自嘲気味に微笑む。
「友良も同じこと言ってた」
「友良なら当たり前に言うだろうな」
春はドアノブを握りしめた。
「うん。ありがとう…、でも、今じゃない」
「今じゃないって、じゃぁいつ - 」
「いつって言われても。心の準備がまだ整ってないっていうか、行きたいって思えないし、このままでも結果満足だし。とにかくゴメン、今じゃない」
そして、「ホントにもう行くわ」と言って、逃げ出す様に出ていった。
しくじったと、夏生は目を閉じて額に手を当てる。
芽生の様には上手くは行かず、つい干渉してしまった。
現状を少しでも変えてやりたいという御節介と欲が湧く。
俺だって憎いよ、春をこんなにした何処ぞの誰かが。




