八月二十四日
第九地区の西にある、乗瀦庁舎に亀丸は勤めている。
主に住民票を発行する戸籍住民課ではなく、教育や子供に関する支援を行っている子ども教育支援課でもない。
その部署のことを皆、口を揃えて、「やり甲斐のある-」と言う。
やり甲斐、やり甲斐、やり甲斐か…
脳みそが茹で上がりそうな気温の中、定期面談を行うため二件のお宅を訪問した。
一件目は、髪の手入れが行き届いていないパチンコ依存の夫と、そんな夫に依存をしている小太りの妻、そしてそんな夫婦の下で育つ三人の子供で構成される家庭だ。
このマンモス団地の三号棟を見上げる。
つい最近も、十二号棟をこんな風に見上げていたか。
面談はいつも、夫婦二人揃って行う。
頼み事をする時は決まって、妻が口火を切るのだ。
子供も三人いて家計は火の車だから、保護費をもっと寄越せときた。
国が定めた上限金額一杯まで保障しているわけだが。
保護費の内訳を尋ねると、毎月約5万の雑費という曖昧な支出が浮上する。
「この雑費、具体的には?」
妻は早口で答えた。
「子供達の勉強道具代とかですよ」
「それは教育費に含まれると、さっき仰って-」
「間違えたんです」
亀丸は「そうですか」と息を吐き、更に尋ねた。
「学資保険でも加入したんですか?」
「えっ、えぇはい。子供達の将来のために」
「だから五万もの出費が出てたんですね…、ですが、学資保険は資産とみなされるので、一度相談が必要なんですよ」
「そうなんですね、何も知らなくって」
「それはしょうがないです。保護制度も複雑ですから」
胸を撫で下ろす妻と、煙草を吸い出した我関せずな夫。
夫婦は所謂、純粋な大人だ。
「お子さん達の事を考えてとあらば、話しは別です。ちょっと面倒なんですが、早速手続きを-」
そう言いながら、手提げバッグから一枚の用紙を取り出す。
亀丸はそれを、二人に見える位置に据えると、項目毎に指を刺しながら説明していく。
説明を聞きながら妻はペン先をすべらせた。
子供の名前と年齢、何処の保険会社の何というプラン名かを書いてもらう。
しかし、その手は止まった。
「ホケンショケン?バンゴウ、なんてもの無かったですよ」
亀丸は困った表情をつくる。
「保険証券番号 ある筈なんですが… 保険証券はお手元にあるでしょう?」
「保険ショーケンなんて貰ってないです。発行されないタイプの契約なんです」
亀丸は手をパチっと合わせ、閃いた様に見せて言った。
「個人カードに加入保険の情報がアップされている筈なので、一度僕の方で問い合わせてみますね」
ジャケットのポケットから社用携帯を取り出すと、「ちょっとまって!」と、顕著に慌てだす。
すると、煙草を灰皿に押し付ける夫が、やっと口を開いた。
「アンタさ、役人なのに知らないの?個人カードの情報は、本人の同意がないと教えちゃいけないの」
役人を言い負かすのは、さぞ、気持ちの良い行為だろう。
自信たっぷりに嘲笑する旦那は、やはり純粋な大人だ。
あらかた想像はつく。信頼している人の言葉をそのまま飲み込み、そのまま言葉にしているのだろう。
「保護費をもらっている世帯は、承諾なくとも開示が可能です。申請書の同意事項にも記載がありますし、それにちゃんと、同意、頂いてますよ」
亀丸は同意書を取り出した。
「個人カードの情報開示に同意します」の項目を指でなぞり、横の同意するというチェックボックスにレ点がされていること、更に同意書のサインも夫の自署で貰っていることも確認できる。
「お前、後からチェック入れたんじゃねぇだろうな」
「そもそも、全項目にチェックがないと保護費の全額支給はされません。同意が無ければ支給は無し、それか、一部支給の家賃補助くらいです」
夫は顔を真っ赤にさせ、ガラスの灰皿を振り上げた。
亀丸は淡々と言う。
「このままでは、機能不全と判断されてしまいますよ」
これは切り札である。
滅多に口に出す言葉ではない。
「それを私にぶつけたら、一発アウトです」
妻は旦那の腕を掴み制止しながら、「すみません、すみません-」と亀丸に謝る。
この光景をみて、つくづく思う。
家庭の機能が潤滑に回っていたら、そもそも俺は此処にいない。
二件目は、仕事でパワハラに遭い、心に深い傷を負った、長期離職中の青年だ。
つい最近保護申請をし、セカンドオピニオンで近所の病院へ通うことになったのだが、その病院に行くのも億劫らしく、付き添うことになった。
道中、彼はこんなことを言う。
「仕事とは言え、こんなことまで…何だか申し訳ないです」
元々真っ当に働いていた青年だ。
気遣う言葉もスッと出てくる。
しかし、過度に人の顔色を伺う癖がついてしまったようだ。
「これも僕の業務です。対価としてお金も頂いていますから、申し訳ないなんて思うことは微塵も無いですよ」
歩いて十分、青年が通院する病院に着いた。
たった十分である。しかしそのたった十分は、彼にとって果てしなく感じる十分だ。
精神科の待合室には、既に十人以上の患者が待機していた。
亀丸は待合室を見渡す。
彼もそうだが、一見 して”普通” に生活を送ってそうな患者がチラホラいる。
気の持ちようなんて言葉があるが、自分の気分をコントロールできる人間がどれ程いるのだろうか。
予約時間一分前に着いた為か、待合室の長椅子に着席してから二分もしないうちに呼ばれた。
「どうします?」
と、亀丸が言うと、青年は申し訳なさそうに、
「すみません。着いてきてもらっても…」
と言った。
受診室に通され、青年が丸椅子に座ると、亀丸は斜め後方で立ちながら、年季が入った男性医師と青年の遣り取りに耳を傾ける。
亀丸から何かを発言する事は一切ない。
医師は柔らかい声で言った。
「寝れてる?」
青年は申し訳無さそうに答える。
「すみません。あまり」
「ご飯は食べられているかな」
「三食はキツイですけど、二回は食べてます」
「そうかそうか、二回は食べられているんだね」
出会ってきた精神科医の中でも、この医師の診察スタイルは初めて見るタイプだ。
そして初めましての医師でもある。
この病院には何度か足を運んだ事があるし、なんなら顔見知りの医師もいる。
患者の方を向いているフリをしながら、パソコンに向かって話している医師が多い。
だがこの医師は、鉛筆と紙を用意して、しっかりと彼に向き合い、メモを取っていく。
「昨日は何を食べたかな?」
「えっと、シリアルと、コンビニの昆布のおにぎり一個」
「一食分?」
「いえ、昼にシリアル、十九時頃におにぎりです」
「そうかそうか、二食分だね」
鉛筆を動かす手を止める。
「眠れてないって言ってたけど、薬、一回試してみるかい?」
青年は上唇を軽く噛み、「うーん」と考えた。
「精神薬とか睡眠薬ってね、必ず飲まなきゃいけないものでも無いし、飲みきらなきゃいけないものでも無い。二分の一錠、なんなら四分の一錠でもいい。飲んで駄目なら貴方の意思で辞めてもいい」
沈黙が一分続き、青年は決断した。
「四分の一錠。飲んでみます」
「ものは試しだ、寝る三十分前から一時間前に服用ね」
医師は上半身を捻り、パソコンに視線を落とす。
マウスをクリックし処方薬を選択した。
青年に向き直り、微笑む。
「まだ時間は有るよ。話したい事、何でもいい」
青年は視線を上げ、再び「んーっ」と考え、口を開いた。
「特に、何も」
医師は、うん、と頷く。
「ゆっくり行こう。って、言った手前申し訳無いんだけど、服薬の経過をヒアリングしたいんだ。だから、二週間後にまた来てね」
青年は亀丸をチラッと見て「はい」と答えた。
「お大事に」と言う医師に、青年は腰を上げて一礼する。
亀丸もそれに続き会釈をすると、医師に手招きをされた。
「あっそうそう。書いて貰いたい書類があるから、福祉の人はちょっと残ってくれる?」
青年に会計と薬の受け取りを済ませる様に言い、亀丸は一人、医師と対面する。
さっきまで青年が座っていた椅子に腰を下ろすと、前置きなしに医師は尋ねた。
「彼の家にペットボトルは幾つ転がっていたかな」
「転がってはいませんでしたが、4、5本キッチンに」
「ペットボトルの回収日は?」
亀丸はスマホの画面を立ち上げ、青年が住む地区のゴミ収集日を確認する。
「えっと、今日、ですね」
鉛筆の尻で頭を掻いた。
「ほら、今よく言われてるやつ。セルフネグレクト。そんな病名は無いんだけどね、その兆候はあるよ。まぁ所謂、鬱状態というやつだけど重くなってきているね」
「次の受診には来ないと踏んでますね?」
「福祉さん。君がいれば受診する」
「福祉じゃ無いですよ。亀丸です」
「じゃぁ亀丸さん。次回もまたお待ちしてます」
その医師は去っていく亀丸の背中越しに、「私は、九鬼と申します」と言った。
青年とはまた二週間後、受診の付き添いを約束し、病院の外来受付の出入り口で解散となった。
腕時計を確認する。十五時半を回っていた。
亀丸は二件の訪問を終え、肩の力を抜いた時である。
「亀ちゃんじゃぁないですか」
不意に呼ばれて両肩が跳ね上がる。
俺を亀ちゃんと呼ぶのは、上司と同期、それと学生以来の友人知人だ。
声の方へ振り返ると、そこには懐かしい女性が立っていた。
「友良さん」
「やっぱり亀ちゃんだ」
亀丸の中の彼女は、二十二歳で止まっている。
彼女のそのアーモンドアイは、嘗て鋭い印象があった。
今は娘がいるからか、年を重ねて経験が豊富になったからか、あの鋭さは削られ、柔和な雰囲気である。




