7 王女の決心
初めてギルバートが王女のお忍びに付き添ってから一月半ほどしたある日。
またもや王女がギルバートに孤児院を訪ねたいと声をかけてきた。院長の八十回目のお誕生日をお祝いしたいというのだった。ギルバートはバートの変装をし、王女はいつも通り質素な格好になり孤児院へむかった。その「お忍び」も問題なく過ぎた。
それから二か月経った、つい先日のこと。久々に王女が孤児院にお忍びで訪ねたいと申し出た。
それが今日の件だ。
珍しく訪問日の日付はいつでも良いという。誕生日会でも、誰かの門出の会でもないようだった。ただ、王女はギルバートには「ついてきてほしい」とのことだった。
もちろんお忍びにはいつだって付き添うつもりだったので、天気が良さそうで孤児院も行事を控えていない、今日を選んだ。ギルバートは一人で着られるようになった旅商人の装束をして、王女と馬車に乗り込んだ。
孤児院につくと、寸暇をおしむようにアンジェリカは来訪を喜ぶこどもたちと歌をうたい、庭の果実を収穫し、みんなでジャムを作った。それからジャムが冷める間、本を読みきかせていた。それが先ほどの王女の姿である。
今から、手作りのジャムをスコーンに載せておやつの時間となるのだろう。
警護中は極力飲食を控え、口に入れるものは食べなれたものに限定するため、ギルバートは孤児院で共にテーブルにつくことはない。ちょうど食事やおやつときになると、ふらふらと廊下や庭の見回りに移動するため、こどもたちは「バートさんはふらふら病」だとか呼んでいた。
院長と話しているうちにテーブルセッティングができたようで、こどもたちと王女や孤児院の働き手の者たちがおやつを囲んで席につく。
頃合いを見計らって、ギルバートはいつもどおり廊下を巡ろうとしたときだった。
「あ……待ってください、バートさん」
王女がギルバートを呼んだ。
すぐに振り向くと、王女はギルバート手招きする。
何事かと近づくと、王女もまたギルバートの隣に移動してきて、こどもたちを見回した。端に座った院長にも会釈する。
その後アンジェリカは、皆の前でゆっくりと話し始めた。
「こちらバートさん……旅商人の息子さんということは、お話してきたよね」
「うん」
「それでね。私は……アンジェリカは、突然のご報告になりますが……旅商人さんと息子さんのバートさんと一緒に……ここを離れて旅に出ようと思うのです。それで……ここに来るのは、おそらく最後になります」
王女の言葉に、こどもたちの目がこれでもかというくらいに目を見開いた。
ギルバート自身も顔に巻いた布の下で、驚きで顔を固くする。
寝耳に水の出来事だった。
それでも驚いて動揺するのは一瞬のこと、ギルバートは状況をさっと観察した。広間にいるこどもたちはどの子も驚きいっぱいの表情だったが、院長や働き手の大人達があまり驚きの表情を見せていないことを確認した。
……あぁ……決めていたことだったのだ。
王女は……アンジェリカは、ここを訪ねる日を、「お忍びをする最後の日」を決めていたのだ。
誕生日や門出でもないのにお忍びでここに来たのは……別れのためだったのか。
「い、いやだよ、アンジェ……」
王女に一番なついているようだった子どもがぐずっと泣き出した。つられるようにして、幾人かのこどもの顔が涙をこらえるように歪んでいた。
「……だ、だめだよ、門出だよ」
こどもの一人が震える声でそう言った。
「そうだ、そうだ……祝福しなきゃ」
涙をこらえる声でこどもたちが言う。
頑是ない、まだ学び舎にも通わないだろう年頃のこどもたちが、ギルバートの腰あたりにも満たない背丈のこどもたちが、アンジェリカへの恋しさを抑えて、アンジェの幸せだけを願うように「祝福を……」「門出への祝福だ」と口々に言いだしたときに、ギルバートは震えた。
もちろん泣き出す子もいる。それを慰める子も。
小さな小さな子は、意味がわからないのか周囲を見てきょろきょろしている。がまんできなくてテーブルのお菓子に手を伸ばそうとする子もいる。赤ん坊がすやすや眠っている。起きてむずがって、働き手に抱き上げられている子もいる。
だがさまざまな子ども達のあいまに、アンジェリカを案じて心配げに見上げる子や、祝福をと繰り返す子や、門出の歌を歌いだす子がいて、アンジェリカとの別れを理解して寂しさを表現するこどもたちがいる。
その少し年上の強い子ども達の感情の揺れをとおして、アンジェリカの言葉の意味はわからなかった幼子たちも、何か寂しいことが起こるのだと気付きはじめた。
よちよちと寄ってきてアンジェリカのスカートをそっと握る子が出てくる。お菓子にのばそうとしていた手をひっこめて、泣いている子どもの背中をあやすようにこする子がいる。
こどもたちがそれぞれがアンジェリカの「ここに来るのは、最後になります」という言葉を受け止めようとしているのをギルバートは目の当たりにした。
こどもの心で。
そのままの心で。
大事な大事な人との別れを受け入れようとしているのだ。
ギルバートは変装している布の中でかつての自分の思惑がいかに浅薄だったかを実感した。
……あぁ、以前の私は……人と人とのやりとりをいとも容易なことだと考えていたんだ。
まるで遊戯盤の駒を進めるみたいに、王女が王女であることを公表し慰問にすれば問題がなくなるのにと、効率ばかりで答えをだそうとしていた。公表して心を乱すであろうこどもたちのことや、それを告げることになる王女の感情を考えていなかった。
会えなくなるわけじゃないのだから大して何も変わらないと思っていたし、もし会えなくなくなのだとしても重要なことだとは思っていなかった。
それよりも「立場」の方が大切だと考えていた。
ギルバートが以前の自分の浅慮に愕然としている横で、アンジェリカがエプロンのすそをぎゅっと握りながら、顔を上げた。
王女は、飛び切りの笑顔を浮かべていた。けれど間近に立っているからこそギルバートに伝わってくるのは、王女の肩の小刻みの震えだ。力を込めて背を伸ばそうとしているのがその強張りからわかった。
ギルバートの隣に立つ人は、精いっぱい、笑顔での別れという贈り物をこどもたちに贈ろうとしていた。
「これからは手紙を書きます。時間はかかると思うし、そんなに頻繁に手紙のやりとりができるかはわかりません。でも、書きます」
王女は慎重に言葉を選ぶようにしてそう言った。
「アンジェ、私たちも……書いていい? バートさん、私たちの書いたものアンジェに届く?」
頼み込むようなこどもたちへの瞳を前にして、ギルバートはぐっと息をのむ。手紙のやりとりはもちろん王女と伏せてでも可能だとは思った。だが、ここで安易に確証のないことを応じるわけにはいかない。
黙ったギルバートの横でアンジェがみなにわかるようにゆっくりと告げた。
「一人ひとりから、送るのは無理かもしれない。これからどこにいくかも決まっているようで決まっていない。私一人のことではないから」
アンジェの言葉の裏に、……国や王、王城、貴族の意向と共にあるから……という気持ちが聞こえる気がした。
自分の生きたい道に好き勝手に進むことができない立場なのだ。
「でも、みんな、安心して。院長さんと話し合ったのだけれど、もしこどもたちから私宛にお手紙を書いてくれるならば院長さんにまずお手紙を預けてみて欲しいの。幾つかまとめて、私がちょっと長く留まる場所に、院長さんが送ってくださるから。……私も楽しみにしています」
「うん、アンジェ、わかった」
こどもたちの頷きを優しい眼差しで確認した王女は、「それでね……」と話しを続けた。
「……それでね。私、アンジェリカは少し時を経たら、ちょっと変わってしまうかもしれません」
不思議な物言いに、こどもたちが首を傾げた。
「変わる? 変わるって。おばあちゃんになっちゃうってこと?」
「うん、それもある。年を重ねていくからね。私は今までもちょっとずつ変わってきたと思うの。赤ちゃんのころから孤児院で育ったアンジェリカ、大きくなって孤児院を出て医療院で働いたアンジェリカ、それから、ある尊い上流のお宅に住まわせていただくようになっている今のアンジェリカ」
うんうんと子ども達がうなずく。それを見つめながら王女が確認するように言った。
「それでね、私はこれから、バートさんやバートさんの仲間の方にいろいろ教えてもらいながら、未知の場所を手探りですすむアンジェリカになると思うの」
「手探りって、探検家? 冒険するの? アンジェ」
「そうね、冒険みたいなものかもしれない……。だって、これから扉を開けるのは、本当に知らない世界だから。冒険っていえるかもしれないわ」
王女がそう微笑んだのを見て、ギルバートは、王女の言う冒険が「王城」であることを悟った。
「私ね、その新しい未知の場所でもね、顔を上げてきちんと、お友達をつくったりして信頼しあえるように生きてみたいの。ただ、そこはこことはちょっと違う新しい場所だから……もしかしたら、私は……ちょっと変わってしまうかもしれない。いつの日か、もしみんなとどこかで会えたとき、私の姿は、服装とか髪型とかお話の仕方とか振る舞い方とか……いろんなところが変わってしまっているかもしれないの」
ギルバートは王女の横顔をじっと見つめた。
『変わってしまうかもしれないの』とこどもたちに告げる王女の瞳は、笑みを浮かべているのに、その長いまつげが揺れている。
その繊細なゆらめきを、ギルバートは目に焼き付けた。一瞬でも見落とさないように。
……この別れの言葉は、王女なりの誠実さで、決心で……勇気なんだ。
王女の話を真剣に聞いていたこどもたちは、うんうんと頷いている。
「アンジェ。そりゃそうだよ、変わって当たり前だよ。引き取られていった子たちも、家や場所によって服や話し方とか違うようになるもの。暮らしていく場所に合ったように、みんな成長していくんだって、アンジェが教えてくれたじゃない」
「……そうね、そうだね」
「だから、どこに行ってもどんな風になっても、どんなふるまいになっても、アンジェがアンジェでありたいって思うなら、アンジェはアンジェなんだよ」
ギルバートはこどもたちの必死の王女への励ましを、間近で聞いた。
一生懸命にこどもなりの言葉を並べて、大事な大事な”お姉さん”のアンジェリカを励ましている。
震えて涙をこらえるような横顔に、安心と明るさを取り戻すのをつぶさにみていた。
こどもたちの一生懸命の言葉が、これからの未来……王城と離れることがないであろう毎日……に不安を覚える王女を励ましている。力を与えている。
「そうね、私は私よね。ありがとう……。見失わずに歩いて行けそう」
王女が微笑むと、こどもたちが「アンジェ大丈夫だよ!」と口々に声をかけた。
そのとき、ひとりの少女が立ち上がった。
「アンジェ、うまくいくよ! だって、バートさんと一緒でしょう? バートさんフラフラしてるけど、アンジェのこと大好きだからきっといつも助けてくれるよ!」
前に話しかけてきた少女が大きな声で言った。それからギルバートの方を見ると、「そうだよね?」と確認してきた。
その勢いある口調と裏腹に少女の目は、真剣で涙すら滲んでいた。
ギルバートは少女の方を向き、ゆっくりとはっきりと頷いた。
助けるとも守るとも断言するのは難しかった。
以前の自分なら、この人を守ると言えただろうけれど、今のギルバートは、人を守るというのはただ剣術が強ければいいというものでも、学や才能があればよいというものでもないということをわずかばかりでも知っていた。
心を守るという意味では、ギルバートよりもずっとずっとこの子供達の真摯な言葉の方が王女を励まし助けている。
ギルバートは自分の手も心も知能もちっぽけだということを知った。完全に無力というわけでもなくとも、完ぺきに誰かを助けうる大きな力があるわけではないのだ。
心を尽くして、命の限りを尽くさんとして、かきあつめるようにしてたった一人の人を守ろうとしつづけるしか、どうしようもないのだ。
終わりもない、完ぺきもない。
だからこそ、一瞬一瞬をかけて誓う。
ギルバートは少女に向かってもう一度頷いた。
「この方のそばにいるよ。私の命のかぎりを尽くして」
ギルバートの凛と広間に響いた言葉は、涙とアンジェへの言葉でにぎやかだった室内を一気にしんと静まり返らせていた。
皆、あまりに真摯なギルバートの口調に驚き、次の言葉が引っ込んでしまったのだった。
沈黙をやぶったのは、隣の王女だった。
「……バートさん、ありがとう。頼りにしています。みんな、私、頑張るね」
砕けた口調で笑顔を浮かべた王女はこどもたちにあいさつすると、ギルバートの方に身体のむきをかえて、「よろしくお願いします」と礼をとった。
近衛騎士に礼を取るなんてと留める前に、王女は顔をあげて若草色の瞳を揺らめかせ、ギルバートに綺麗な明るい笑顔を見せたのだった。




