12 赤いジャム
さすがに王族の居住区域にはいれば走るわけにはいかない。
はやる気持ちを抑え、ギルバートは第十一王女アンジェリカの部屋に急いだ。
扉を叩こうとすると、その前に内側から開く。
夜の警護の女官の凛々しい目線がギルバートに注がれる。女官は一言もはっさず、手振りで室内へと促した。
ギルバートが中にはいると、後ろにまわった女官がついてきた。
居間の長椅子に王女は腰かけていた。
王女に近づきかけて、はっと息をのむ。
咄嗟にギルバートは視線を床に落とした。
王女の姿が昼間の見慣れたドレス姿ではなく、薄手の生地のゆったりと身体にそうような寝間着だったからだ。
もちろん肌は見せないように肩からショールを羽織ってはいるし、透けているわけでもない。
けれど、ランプのあたたかな光に照らされた、夜のくつろいだ時間に身に着ける服装は、あまりに昼間の王女の真面目で隙のない姿とは雰囲気が異なった。
初めて見る姿を前に、ギルバートは自分が過剰に緊張し、胸が早鐘を打つのを止めたくても止められなかった。
近衛騎士は王族の私的な時間にも混じって警護することがあるため、たしかに寝間着姿の主と面することもあるのは知っていた。
だがギルバートは王女について半年、まだそのような経験はない。そういう近衛騎士としての経験不足がこんな激しい動悸をおこさせるのか……と戸惑い、けれどどうすればいいかわからず視線を彷徨わせた。
礼儀として俯くわけにもいかない。どこを見ればよいのか迷ってしまう。
結果的にどこに視線を向けても、ゆらゆらとランプの灯りが揺らめいて、生地がしなやかに身体にそって王女の陰影をつけているのが視界に入ってしまい、緊張はおさまりそうにない。
結果、めぐりめぐって、ギルバートは肢体が視界に入らない視線の先として、王女の若草色の瞳を見つめることになった。
未婚の貴婦人が人と長く視線を交わしあうのはマナー違反であると王女に伝えたのはギルバートであるのに、自ら禁を破ってしまっている。そのこともまたギルバートを焦らせ、今、ギルバートは緊張で頬を染め、ことさら険しい顔つきとなっていた。
おそらく王女はギルバートの硬い表情に気付いたのだろう。
「……このような姿で申し訳ありません。夜間に呼びつけてしまったのはこちらですのに」
と王女があやまった。ギルバートは、「……いえ」と小さく返す。ぎこちなさが極まって冷めたそっけない返事になった。
そんなギルバートの態度にひるむことなく、王女は姿勢をただし、真正面からギルバートを見た。
「どうしても……お礼を伝えたかったのです。強盗から守ってくださり、ありがとうございました。ギルバートはとてもお強いのですね」
ギルバートは自分の頬がかっと熱くなるのを感じた。
「いえ……。まだ未熟者です」
「これからさらに、騎士として磨いてゆかれるのですね。このたびは、守ってくださりありがとう。そして、今までのお忍びを黙認してくださって、警護してださって、本当にありがとうございました」
丁寧にゆっくりと王女はそう言った。
その後、王女はそっと手のひらに瓶をのせてギルバートの前に差し出した。
「これをお渡ししようと思って。院長からいただいたジャムです。私が持って帰ってしまっていましたから……どうぞ」
赤味を帯びた宝石のように煌めくジャム。
「よろしいのですか」
「お口に合うかどうかはわかりませんけれど……。煮沸して瓶詰にしていますから、長持ちもします。院長がせっかく持たせてくださったので、もし良かったら、ギルバートにも味わっていただけたらと思って」
王女はそう言って王女の前に立つギルバートを見上げた。
想い出のつまった瓶は王女にとって大切なものだろう。それを受け取っていいのかわからないが、わざわざ今夜中にギルバートを呼んで渡そうとしたということは、それだけの気持ちがこもっているのだと思った。
ギルバートは王女の瞳を見つめ、それから頷いた。
王女に向かってゆっくりと礼をし、騎士らしく優雅に王女の前に足を折り、跪く。
ギルバートの一挙一動をじっと王女は見つめていた。
ひざまずいたギルバートは王女の方にむかって、手を差し出す。王女はそっと瓶をギルバートの手のひらに置いた。
軽くて重い。
「このたびは、本当にありがとうございました」
王女がもう一度跪くギルバートに感謝の意を告げた。
その声がしっとりと間近で響いて、ギルバートは胸がまた痛くなった。
失礼のないように丁寧に受け取り、礼をしてギルバートは立ち上がろうとした。
そのとき、王女の視線がギルバートの手元で止まっているの気付いた。
「どうかなさいましたか?」
声をかけると、はっとしたように王女は顔を上げた。
「いえ……」
少し歯切れの悪い返事をする王女を不審に思い、ギルバートはうかがうように見た。王女はちらりとギルバートの手元をみて、すぐにまた目をそらし、なんでもないという風にギルバートに微笑んだ。
「ごめんなさい、このジャムの食べ方をお伝えしようと思って思い出していて……。スコーンに付けても良いですし、ブレッドにチーズと挟んでも美味しいです。あと意外に、甘味のたりないジュースに混ぜるのも良いのです」
「ジュースですか?」
「えぇ。健康のために野菜や果実を崩して絞り出したジュースなど、孤児院でも出していたんですが……騎士様は召し上がらないかしら……」
「いえ。よく料理人たちは、野菜や果実のジュースもよく出してくれます」
ギルバートの心の内に『……パナーニャジュース』という言葉が通り過ぎてゆく。
「よかった。野菜や果実で健康によいものって、苦味や辛みが強いものもありますでしょう? そこにこのジャムを足すと、甘酸っぱいジャムなので不思議と飲みやすくなるんですよ。たいていのものにいけます。ゴージン葉ジュースや、デンゴンの実ジュース、パナーニャやマレンディのジュースにも合います」
このジャムに合うジュースの中にパナーニャも入っていることにギルバートは興味を引かれた。
もちろん自分が体格を気にするこどもの飲料の代名詞というべき『パナーニャジュース』を飲んでいるとは王女に明かすつもりは微塵もないが。
「そうですか。ではいろいろ試してみます」
「えぇ。お口に合うようでしたら、またお作り……」
そこまで言って、王女ははっと顔をこわばらせ、そのまま眉尻を下げた。
「……いえ。もしお味をお気に召したなら、作り方を……お伝えしますね」
王女ののみこんだ言葉に気づいたが、ギルバートはそのまま「ありがとうございます」とだけ伝えた。
ちょうどそのとき、後ろに控えていた女官が、
「殿下。そろそろお時間が……」
と声をかけた。
女官が同席とはいえ、男性の騎士が王女の室内にいることはふさわしくない時間帯である。
「そうですね、無理をいってきてもらったのに。……ギルバート……明日から、各貴族の系図を、もう一度教えてくださいますか……。あと、ギルバートに頼んで良いものかすらわからないのだけれど……」
「なんなりとお申し付けください」
「今まで後回しにして避けておりました貴族の方が身につけているダンスや、貴婦人の細やかなお作法、本当に初歩的な扇子の持ち方から学びたいのです。私のようなものにでも、貴婦人としての嗜みをお教えくださるような方を探してくださいませんか」
王女の言葉にギルバートは頷く。
「必ずふさわしい方をご紹介いたします」
王女の瞳が凛と輝いていた。
この王城で顔を上げて生きていくために……前を向こうとしている。ジャムを作っていた手を貴婦人の扇子を持つ手に替えて。ここで、アンジェリカとして生きていこうとしているのだ。
孤児院をはじめとする街での自分に別れをつげようとしている。
今日までの自分と決別しあすからの自分を変えたい……だからこそ、わざわざ夜でも、このジャムを渡すために自分を呼び寄せたのかもしれない――そんな風にギルバートは感じた。
「必ずや、叶えます。……アンジェリカ様」
主の想いにすべてを尽くして添いたいと思った。
女官に退室を促され、ギルバートは深く礼をし、王女の前から退いた。
入室時と同じように女官が扉までついてくる。
ギルバートが部屋から出る時に、女官が小声で「騎士殿」と声をかけてきた。
見上げると、女官の目が少しだけ呆れたような目線で小柄なギルバートを見下ろしている。
「……その袖の染み、はやく洗った方がよいぞ。その果実の染みは取れにくい」
言われたことにぎょっとして、ギルバードは自分の騎士服の袖を見た。
ちょうど手首をひねったところ、ジャムを持つ右手の袖に小さな青い飛沫が数点染みついているのを見つけた。
目を見開く。
……パナーニャジュース!
自分が先ほど料理長に渡された特大ジュースを吹き出しかけたとき、咄嗟に口を封鎖じた側の手元だと気づいた瞬間、つい今しがた王女からもらったジャム瓶、そして王女の少し唐突で丁寧すぎる「ジャムの使い方の説明」が、一気に頭の中で結びついた。
説明の直前、王女の視線が自分の右手で止まっていたことも鮮明に思い出される。
……気づかれた!
カっと頬が熱くなる。
ギルバートはとっさに女官の顔を見上げた。
そんな慌てたギルバートにむかって女官は肩をすくめて「皆、成長期に飲むものだ。恥じるではない」と小声で言うと、扉を静かに閉めてしまったのだった。
扉の前で取り残されたギルバートは、真っ赤になった顔をどうすることもできぬまま、ジャムの瓶をぎゅうぎゅう握り締めて寮に戻った。
もちろん染みもすぐに揉み洗いした。
袖の染みは消えても、王女の記憶の中にギルバートがパナーニャジュースを飲んでることは消え去らない。
なぜ吹きこぼしてしまったのだと後悔が押し寄せて
何度ももだえにもだえ明け方を迎えるころ、やっと恥ずかしさはどうすることもできないのだとあきらめの境地に達しかけた。
だがそのときになって、ギルバートはジャムの果実の名がなんであったか聞きそびれたことに気づいた。
……今さらもう聞けない。
ジャムの果実の名を聞けば、王女にパナーニャジュースを飲んでるいることを再び思い出されてしまいそうだった。
自分から話題をふるなんて出来そうにないと、ギルバートはまた恥ずかしさと落ち込みで髪をわちゃわちゃとかいた。
結局、王女のための貴婦人の学びの先生役をどの貴族女性にするか……実家や親族、近衛騎士の人脈総動員の人選に思考を向けることで、ギルバートはなんとか正気を取り戻したのだった。




