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奇跡の先に君がいた  作者: 朝凪 紡


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5/7

おれもすき

それから、二週間が経つ頃、涼しかった風が去り、猛暑日が続いていた。


ホテルは、一年で最も忙しい時期を迎えていた。

朝、家を出る。

そして、気づけば夜になっている。

そんな毎日だった。


勤務時間は、最低でも十四時間。

休憩らしい休憩もほとんど取れず、目の前の仕事をこなすだけで一日が終わっていく。


部屋へ帰れば、ハムオがいつものように出迎えてくれた。

ご飯を食べて、頬を寄せて、私の枕元で眠る。

そんな小さな幸せに癒やされながらも、眠気には勝てず、そのまま眠りにつく日が続いた。

返信の来ないトーク画面を見る余裕すら、なかった。


そんなある日——

仕事を終え、いつものように部屋へ戻る。

「ただいま、ハムオ」

力なく笑ってケージを開けると、途端に中からハムオが勢いよく飛び出してきた。

その姿を見て、少しだけ肩の力が抜ける。

着替えもそこそこに机へ向かい、明日の段取りを確認しようとスマホを手に取った。

画面を開く。

無意識に開いていたのは、写真フォルダだった。

そこには、小さなハムスターが何枚も映っていた。

「……ハム次郎」

お気に入りなんて決められない。

どの一枚にも、大切な思い出が詰まっていた。


ぽたり——

画面へ、一粒の雫が落ちる。

「あれ……」

拭っても、拭っても、止まらない。

「無理すぎるぅ……うぅ…」

仕事で怒られたわけでもない。

彼のことを、考えていたわけでもない。

ただ、ずっと走り続けてきた心が、ふと立ち止まった瞬間。

一番会いたかった存在を、思い出してしまった。

「これは、止まらないやつだね」

意思とは関係なく、頬を伝っていく雫。


私は立ち上がり、タオルを取りに行く。

再び机へ戻ると、肘をつき、もう我慢することなく涙を流した。

声を押し殺しながら、ただ泣き続ける。

隣では、ハムオが静かに私を見つめていた。

何もできずに。

ただ、じっと。


そして、ふいに何かを決めたように、小さく動き出した。


ハムオは傍まで歩いてくると、タオルに隠れた顔を見上げる。

その黒い瞳は、どこか迷っているようだ。


やがて視線を移す。

その先には、開きっぱなしのノートと、その上に置かれた一本のボールペン。

ハムオはペンへ近づき、前足で押した。

ころり、と転がる。

思ったよりも進まなかったのか、もう一度、力を込めて押す。

「……ハムオ?」

転がるペンの音に気づき、目に当てていたタオルをゆっくりと下ろした。

(遊んでるのかな?)

珍しく、何かに夢中になっているハムオ。

私はしばらく、その姿を眺めていた。


何度も向きを変え、前足で押したり、口でくわえたりしている。

小さな体で、必死にペンと格闘している。

「ふふっ……何してるの?」

その姿がおかしくて、少しだけ笑ってしまう。

すると今度は、机の端へ歩いていく。

転がっていた一本の鉛筆の前で、立ち止まった。

「……?」

何をするんだろう。

そう思って見ていると、ハムオは鉛筆を口でくわえ、ぐっと持ち上げた。

「え?」

(……力持ちだな)

そんなことを思いながら、私はその様子を続けて見守っていた。


かり、と紙を削る音がする。

一本の線。

また一本、本当にゆっくりと何かを書き始めた。

「……まさか」

私は、さっきまで号泣していたのが嘘だったように、涙が止まり、その光景を凝視する。


「お……?」

思わず声に出す。

少し歪ではあるけれど、ひらがなが紙の上に現れた。

ひらがなを書ける時点で、本来なら恐怖を覚えてもおかしくない。

それなのに私は、ハムオだというだけで、不審には思えなかった。

(最初から、言葉がわかってる感じだったもんね)

一歩間違えれば、大変な状況だというのに。

我ながら、あほだなと思いつつ、一生懸命に書いているハムオを目で追い続ける。

「れ……」

(れが書けるなんて、すごいね。難しいのに)

また一文字。

「も……」

文になりそうなくらい、きれいに同じ高さへ文字が並んでいく。


筆は止まらない。

最後の一文字を書き終えると、ハムオは口から鉛筆を離した。

ころん、と乾いた音を立てて、鉛筆が机へ転がる。


私は、改めてノートへ視線を落とした。


そこには、途切れ途切れの文字で、

『おれもすき』

と、書かれていた。


「……俺も、好き?」

声が、漏れた。

その音を最後に、しん、と部屋が静まり返った。

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