第五話 勉強
目の前の記号のようなものを睨みつつ私は頭をフル回転させていた。
「私は、今日は、……忙しい?」
「はい、そうです。ではこちらは?」
「えぇと、君は、いや彼は?本を読んでいる?」
「彼は、であっていますよ。ただ、ここに注意してください?」
とんとんと長い指が記号を叩く。その記号に見覚えがあった。
「あ、あー。彼は本を読んでいました」
「はい、そうです」
よくできました、と褒められて、私ははにかんだ。
この世界で生きるためにまず必要だと感じたのは、読み書きの能力だ。
国内の識字率は大体40%だという。二人に一人以上は文字を読めない人間がいる、と考えると大して重要ではないように感じるかもしれないが、その60%は基本的に農民だ。
貴族の養子となった以上、文字を読める、書けるということは、ほとんど最低条件に近い。
ということで、私はここ二週間ほど、執事見習いのラグさんから文字を習っていた。
ラグさんは柔らかい蜂蜜色の髪を持った、17、8歳の執事見習い。そろそろ引退を考えているという老執事から、仕事のコツや重要なことをゆっくりと受け継いでいる最中なのだという。
ラグさんは教え方がうまい上に人が良くて、忙しい中ちょくちょく時間を空けて私の勉強を見てくれた。
「では、今日はここまでです。大分身についてきたのではないですか?」
「うーん、まだまだかなぁ。これじゃ子供向けの絵本も読めるかどうか」
私は苦笑した。本当に簡単な文しかいまだ分からない。
「絵本ですか……そうだ、次の授業ではこちらの世界の童話でも読んでみたらいかがでしょうか。よろしければ私が何冊か見繕ってまいりますが」
「え、いいんですか?」
異世界の童話。ついつい頬が緩んでしまう。
私は元の世界では本を読むのが好きだった。それこそライトノベルの類から外国の小説まで。その始まりをたどると、幼い頃色々な童話を読み漁ったことから来ている。
童話はいい。童話は、何よりもその地域の文化が染み込んでいる。素朴な文章とそこに散りばめられた数々の幻想。それを読むのが私は好きだった。
「ごめんなさい、私のわがままでいろいろとしてもらって」
「いいえ?お嬢様のお役に立てること至極光栄です。それに、この程度わがままには入りませんよ。また私のお役に立てることがありましたらいつでもお呼びください」
ニッコリとそう言いのけるラグさんは、まさに使用人の鏡だった。
ラグさんが出て行くのと入れ替わりに、パタパタとレティシアが駆け込んでくる。
「アカネ様!街に行きませんか!?」
突然のお誘いに、私は首をかしげる。
「街?何かあるの?万一行くとしたらウェンディさんに許可を取らないと……」
「ご主人様からはすでに許可を取っておりますわ。アカネ様、今日は市が立つ日なのです!」
「そう。だから一度、君も屋敷以外のところを見てくるといい」
レティの後を追って、ウェンディさんが部屋に入ってきた。
「そら、餞別だ。街で使うならばこれぐらい細かいお金がちょうどいいだろう。単位はレティに街で習いなさい」
「いいんですか?」
ウェンディさんから渡された小さな革袋はずっしりと重かった。中にはぎっしりと銅貨と銀貨が詰まっている。
「まず君はこの世界のことを知らなければならない。そうだろう?ならば一度屋敷から出ることは必要だ。君の目で、耳で、体で、これから君が生きていくここがどういう世界か見てくるといい」
いつまでも、無知を異世界人だからという理由ではごまかせない。異世界人、その存在自体を国があまり広めたがっている様子がないから、なおさら。
引きこもっているのは下策、ということか。
「分かりました。ありがとうございます」
「あぁ。気をつけて行ってきなさい」
ウェンディさんに見送られながら、私は着替えるためにレティに腕を引かれて自分の部屋へと戻る。足取りは、心なしか重い。
「洋服は、私のものをお貸ししますわ。あとは……マントをお借りしてきましょうか?」
「レティ、クロッカス人は、黒髪でもみんな目が青いって聞いたんだけど、本当?」
レティはぱちぱちと目を瞬いた。
「え、えぇ、そうです。ですからアカネ様はクロッカス人ではないと証明され、無実となったのですわ」
「んじゃ、もう一つ。市場でクロッカス人が歩いてたら捕まります、なんてことないよね」
彼女は眉をしかめた。いつもより幾分低い声で、不機嫌そうに言う。
「アカネ様、私が貴方にマントを勧めたのはそんな理由ではなく、ただ不快な思いをしないように、と思っただけですわ」
くすりと私は笑みを浮かべて、ぽんぽんと頭を撫でた。
「大丈夫、そんなこと疑ってない。ただちょっと確かめたかっただけなんだ」
ウェンディさんの判断は正しかった。たとえそれが気が進まないことでも、確かにそれは、私のためだ。
逃げて逃げて、嫌なことを先延ばしにしても、いずれ必ず、現実は私の前に無慈悲に現れる。
ならばいっそ、覚悟してそれに相対しようじゃないか。
「マントはいらない。この格好で、どれだけの反応が帰ってくるのか。それを私は確かめる」
執事の名前をライナスからラグウェルに変更。
ライナスは王太子さんだよ……




