2:思想の毒
空を見上げると、まるで雪が舞っているように見えた。
だが、降ってきたのは冷たい結晶ではない。俺たちが印刷所で何日もかけて刷り上げた、ただの、しかし帝国を歪ませる紙の束だ。
「……降り始めたな」
俺の呟きに、オーエが空を見上げてニヤリと笑った。
俺たちの拠点である山岳地帯から放たれた、無数の渡り鳥たち。その足に括り付けられた筒から、数万枚もの「新聞」と「平和憲法」が、風に乗って帝国の各都市へと運ばれている。
これ自体は、物理的な破壊力なんて皆無だ。
しかし、これは俺が現代日本から持ち込み、みんなの協力で作り上げた、この世界で最も強力な爆弾だ。
俺は双眼鏡を覗く。
帝国の第三区画、製鉄所の外。過酷な労働でやつれ果てた亜人の奴隷たちが、空から落ちてきた「それ」を、恐る恐る拾い上げていた。
最初は、ただのゴミだと思ったのかもしれない。
でも、奴隷の一人が、偶然にも文字が読めた。
「……『平和憲法』? ……全ての人間は、生まれながらにして自由である、と……?」
その奴隷が、震える声で読み上げる。
周囲の仲間たちが足を止める。彼らは今まで、自分が所有物であり、働いて死ぬだけの歯車だと思い込まされてきた。けれど、その紙切れには、「あなたは歯車じゃない、人間なんだ」と書かれている。
その言葉は、まるで熱病のように、あっという間に周囲の奴隷たちへ感染していった。
誰かが読み上げ、誰かが聞き、誰かがその意味を反芻する。
彼らの瞳の奥に、死んだ魚のような濁りが消え、初めて「光」が宿るのが、遠く離れたここからでも分かった。
「見てろ、フジワラ。……これから、この帝国中で『思考の爆発的感染』が始まるぞ」
オーエの言葉通りだった。
広場に集まった連中が、最初はただの紙切れを見つめていたのが、徐々に互いの顔を見合わせ、ヒソヒソと話し始めている。それは、帝国が最も恐れる「自分たちで考える」という行為だ。
これまで、帝国は「効率」という名のもとで、彼らの時間を管理し、思考を停止させてきた。
俺たちがやったのは、その管理されたシステムに、たった一滴、「自由」という名の毒を混ぜただけだ。
「おい、あの憲法には何が書いてあるんだ?」
「読んでくれ、もっと大きな声で!」
広場の中心で、誰かが叫んだ。
読める者が、高らかに宣言する。
自分たちが受けている不当な暴力のこと。
自分たちが本来持っているはずの権利のこと。
そして、この世界を支配する帝国というシステムが、いかに彼らの尊厳を踏みにじってきたかという事実。
その瞬間、製鉄所の炉を焚くための巨大な炎が、彼らの情熱でさらに赤く燃え盛ったように見えた。
だが、彼らはもう、それまでのように黙々と鉄を打つことはしないだろう。
「……始まるな、ストライキが」
俺は確信を持って言った。
帝国は、武力でニホン共和国を鎮圧しようとするだろう。でも、この「思想」というウイルスを、銃や剣で殺すことはできない。
一度、「俺たちは人間だ」と気づいてしまったら、もう元の奴隷には戻れないんだ。
空にはまだ、俺たちが放った鳥たちの群れが舞っている。
それは帝国の空を覆い尽くすほどの、平和という名の雪崩だった。
遠く、帝都の方角で何かが音を立てて崩れる音が聞こえたような気がした。
いや、それはただの錯覚じゃない。帝国という巨大なシステムが、その根底から揺らぎ始めた音だ。
俺は肩の上のミニマム・ドラゴンを撫でた。
こいつも、この異様な熱気を感じ取っているのか、小さく鳴いて俺の頬に顔をすり寄せる。
「ああ、始まったよ。これからが、本当の戦いだ」
世界を変えるための、一番静かで、一番激しい戦争が。
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