1:静かなるパンデミック
ソンガ帝国の首都、白亜の宮殿。
皇帝執務室は、昼なお暗く、ただ灯火だけが揺らめき室内の精密な調度品を照らしていた。
イル・ソンガは、黒檀の机の前に座り、絶え間なく運ばれてくる報告書に目を通していた。
この帝国に、魔術による監視システムなど存在しない。帝国の統治を支えているのは、数万人の官僚たちが手作業で積み上げる膨大な「紙」と、人の手による精緻な計算機だ。
各都市の代官から上がってくる収穫量、労働人口、物資の流動状況。それらはすべて、帝都の官僚機構によって集約され、イルのデスクへと届く。彼はその情報の海を、たった一人で読み解き、修正指示を書き込む。それが、彼が血を吐くような思いで築き上げた絶対的な統治体制だ。
「北西部、第四区画。穀物物流に0.03%の遅延あり」
イルが静かに告げると、控えの官僚が震える手で記録簿をめくる。
「原因は、従事者の過労による荷役速度の低下です。代替要員を……」
「不要だ」
イルはペンを置き、冷徹に言い放った。
「その区画の要員配置は、既に最適化の限界に達している。余剰人員はいない。原因は疲労ではなく、労働への『淀み』だ。その区画の責任者を即刻解任し、強制労働区へ送れ。代わりには、近隣区画から『思考を停止した』若手を補充する」
イルにとって、人間とは単なる資源だ。感情や疲労といったノイズは、管理の甘さから生じる。彼がそれを許さないのは、かつて「皆で話し合う」という甘さが、愛する家族を死へ追い込んだからだ。
一人ひとりの意志など、国家の安定の前では無価値だ。彼は完璧な計算式に従って、人間という歯車を回し続けることに全精力を注いでいる。
だが、その盤石なはずの人事体系に、名状しがたい『ズレ』が生じ始めていた。
各地から届く報告書に混じる、わずかな違和感。それは故障ではない。何かが、帝国の巨大な人力動力を、内側から摩耗させている。
× × ×
俺の手には、一束の紙の束が握られていた。
インクの匂いが漂う、ただの安っぽい紙切れだ。だが、これこそが帝国を終わらせる弾丸だと、俺は確信している。
「準備はいいか、オーエ」
俺が声をかけると、隣にいたオーエが鋭い眼差しを返してきた。
かつては「ポンコツ王子」と揶揄されていた男の面影はもうない。その背筋は鋼のように真っ直ぐ伸び、彼の視線には、冷静な理性が宿っている。
「ああ。……我々の『宣戦布告』だ、フジワラ」
オーエが力強く頷く。
俺たちは武力で帝国の門を叩くわけじゃない。それはイル・ソンガが得意とする戦い方だ。あいつらは、反乱分子を武力で鎮圧することには長けている。
だが、俺たちが仕掛けるのは、もっと陰湿で、かつ逃げ場のない戦いだ。
現代日本の常識を持ち込む。それは、何も文明の利器を再現することだけじゃない。
この帝国が、必死になって隠蔽し、民から奪い取ってきた「情報」を公開することだ。
「帝国の連中が必死に隠している『事実』と、俺たちが提示する『選択肢』。それを民衆に伝えるだけでいい」
俺は新聞の束をトランクに詰め込んだ。
これは軍事作戦じゃない。民衆という名の巨大な歯車に、ほんの少しの異物を噛ませるだけの、地味な作業だ。
俺に与えられた能力、『手懐ける(テイム)』。
これまで俺は、獣や竜を仲間にすることで戦ってきた。でも、これからは違う。人間という種族そのものを、俺たちが掲げる『民主主義』という名の理想で、手懐けていく。
「オーエ、お前のカリスマが必要だ。民衆の前に立ち、彼らに『自分たちはただの資源ではない』と教えてやってくれ」
「……ああ。私が先頭に立とう。貴様は、その裏でこの国のインフラを支配しろ」
俺たちは庁舎を出た。
帝国の風が吹いている。俺たちがばら撒こうとしているのは、実質的にはただの情報だ。
しかし一度感染すれば、もう元の「言われた通りに働く歯車」には戻れない。
イル・ソンガ。お前が積み上げた数万人の官僚、数千の管理項目。
その全てを、一枚の新聞紙で、無意味な紙屑に変えてやる。
俺たちの長い戦いが、今、静かに幕を開けた。




