プロローグ:砂上の楼閣と、最初の風
ソンガ帝国の首都、その天を突くような白亜の宮殿の最上階。
皇帝執務室は、常に静寂に包まれていた。窓には厚い防音の魔術が施され、街の喧騒も、民の嘆きも、ましてや辺境で燻る反乱の狼煙さえも、この場所には届かない。
若き皇帝イル・ソンガは、黒檀の机の上でチェスの駒を指先で弄んでいた。
彼の瞳は、盤面ではなく、広大な帝国の地図を見つめている。それは、帝国が誇る「中央集権の極致」――彼が血を吐くような思いで築き上げた、完璧な統治システムだ。
「計算通りだ。……いや、また計算外のノイズか」
イルの固い指が、一つの都市をなぞる。そこでは、昨日まで完璧に機能していた物流システムが、わずかな誤差を生じさせていた。
かつての彼ならば、この程度の数値は即座に修正可能なエラーとして処理していたはずだ。しかし、今の彼には、その数値が「意志の不在」という名の致命的な欠陥に見えた。
「コープ、か」
その名を口にするだけで、イルの胃の腑に焼けるような熱が込み上げる。
辺境で芽吹いた「亡国の王子」と「異界の転移者」が掲げる理想。それはイルにとって、かつて彼の人生を滅茶苦茶にした「毒」そのものだった。
――皆で話し合えば、正解に辿り着ける。
――多数決こそが、最も正しい総意である。
その甘美で無責任な言葉が、かつての王国では盾にされ、そして彼からすべてを奪った。
話し合いの遅さが、両親を殺した。多数決という名の怠慢が、彼の妹モノの治療の機会を、身体の自由を奪っていった。
あの時、もし誰か一人が――たった一人でいい、冷静に全てを決定し、断行していれば、彼らは死なずに済んだはずだった。
だからこそ、イルは誓ったのだ。二度と「合議」などという名の下で、誰かを見殺しにはしないと。
この帝国は、イルという一人の天才の脳内だけで完結する、究極の防壁だ。誰もが死なず、誰もが飢えず、ただ効率的に回る歯車として生きる、悲劇のない楽園。
それなのに。
彼らはまた「自由」や「人権」という名の混沌を振り撒こうとしている。
かつて彼らを殺した、あの「甘さ」という名の疫病を。
「……愚か者どもが」
イルの声には、怒りがあった。それは感情の爆発ではない。長年、冷徹な知性で押し殺してきた、凍りついた憤怒。
彼はチェスの『王』の駒を、盤面の中心へ力任せに叩きつける。ガシャリ、と響く音は、まるで葬送の鐘のようだった。
「私の帝国を、悲劇の舞台に引きずり戻そうというのか」
窓の外を見た。
美しい帝都の街並み。その空の彼方から、一羽の鳥――いや、それはフジワラたちが放った、一通の『新聞』だ。
紙切れ一枚。たったそれだけの情報が、彼の築き上げた完璧なシステムを、内部から腐らせようとしている。
イル・ソンガは、窓辺に歩み寄る。
その表情に、皇帝としての余裕はなかった。あるのは、愛するものを奪ったあの悲劇を繰り返すまいとする、歪んだ執念と、それを守り抜こうとする徹底的な正気だけ。
絶対秩序の自壊。
その幕開けの鐘が、今まさに、帝国の心臓部である彼の耳元で鳴り響こうとしていた。
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