エピローグ:思想という名の猛毒
帝国の首都、その深奥にある玉座の間は、かつてないほどの冷気に包まれていた。
帝王イル・ソンガは、指先に残る象牙の駒の感触を確かめるように、ゆっくりとそれを卓上に置く。かつては完璧なチェス盤であったはずの盤面は、今や見る影もなく乱れ、黒い駒たちは無残に倒れていた。
「……武器を持たぬ国が、地形と魔獣で我が軍を壊滅させた、だと?」
イルの呟きは、誰に向けられたものでもなかった。
跪く生存者の将軍は、震える声で答えることすらできず、ただ額を石床に擦り付けている。惨敗。それも、帝国の軍事力に対する真っ向からの否定。物理的な暴力が通じない、理解不能の敗北。
「物理的な暴力では、あの国は潰せない……。ああ、そうだ。あれは暴力ではない。ただの『考え方』の暴力だ」
イル・ソンガは立ち上がり、巨大な窓越しに帝国の街並みを眺めた。
力による支配、秩序による統治。それこそが正義だと信じて築き上げたこの帝国に、コープという名の「思想の毒」が、音もなく浸透しつつある。もし、国民が「自分が主人だ」と気づいてしまったら。もし、理屈を捏ねる彼らが、この絶対秩序に疑問を持ち始めたら。
その時、この帝国を支える強固なシステムは、内部から脆くも崩れ去るだろう。
一方、遠く離れたコープの街。
かつての静かな印刷所は、今や昼夜を問わず輪転機が回転する音と、インクの匂いに満ちていた。
フジワラは窓辺に立ち、何羽もの渡り鳥たちを空へと解き放っていた。鳥たちの足には、小さな筒がくくりつけられている。その中身は、先ほど採択されたばかりの、世界を変えるための「平和憲法」の小冊子だ。
「さあ、攻め込むぞ。武器はいらない、概念をくれてやる」
フジワラの言葉に応えるように、肩の上のミニマム・ドラゴンが小さな咆哮を上げる。
空を覆うほどの鳥の群れが、帝国の方向へと一直線に飛び去っていく。
それは、目に見えぬ防衛線を超え、敵の心臓部へと突き刺さる、平和という名の矢。
コープの戦いは、ここから新たなフェーズへと移る。
軍隊対軍隊の戦争ではなく、思想対思想の、終わりのない闘争へ。
夜明けの光が、地平線の向こうから力強く差し込んできた。
それは新しい国家の誕生を祝う朝日か、それとも帝国という古い秩序を焼き尽くすための、業火の始まりか。
フジワラは静かに微笑み、また一つ、新しいノートのページを捲った。
(亡国の王子とチート転移者は〈民主主義〉で圧政に反逆します 第六話・完)
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