8:防衛システム発動
峡谷を埋め尽くした帝国軍の重装歩兵たちが、盆地の底へと到達した。
彼らにとって、そこはただの脆弱な開拓地のはずだった。武器を捨て、丸腰であることを宣言した、哀れな亡命者たちの墓場。
先頭に立つ部隊長が、高らかに剣を掲げて号令をかけようとした、その時だった。
「──今だ!水門を解放しろ!」
盆地の入り口、山肌に隠されていたドワーフたちが、巨大な岩石のレバーを一斉に引いた。
地響きのような轟音が、峡谷に鳴り響く。
国境の山々の雪解け水を蓄えていた巨大な堰が、その役割を終えて決壊したのだ。
凄まじい濁流が、盆地の入り口を塞ぐようにして押し寄せる。逃げ場を失った帝国軍の重装歩兵たちは、たちまち膝まで泥濘に足を取られた。
「な、何だ!? この水は! 退路を断たれただと!?」
混乱が兵たちを飲み込む。重い鎧を纏った歩兵たちにとって、泥沼と化した地面は致命的な足かせだった。
「さらに畳み掛けるぞ。フェロモン弾を投下しろ」
上空。雲を突き抜けて急降下したハルピュイアの群れが、帝国軍の真上で何やら小さな瓶を次々と割り砕いた。
瓶から舞い散ったのは、特定の魔獣を狂乱させる、特殊なフェロモンを含んだ粉末だった。
それは、コープの住民たちが「共存」という名の下で、長年かけて調査し、管理してきた森の最上位捕食者たちの「狩りのサイン」そのものだった。
数秒後、盆地を囲む森の奥深くから、地を這うような咆哮が響いた。
飢えと興奮に駆り立てられた凶暴な毒蜂の群れ、そして漆黒の鱗を持つ巨大な山獣たちが、まさに『獲物』が現れたかのように峡谷へと殺到する。
盆地の底は、一瞬にして殺戮の宴へと変貌した。
武器を持たないはずのコープの住民たちは、ただ高台からその様を見下ろしていた。
「あいつら……戦いもしないで、僕たちをあんな化け物の餌にしようっていうのか!」
帝国軍の将軍が絶叫する。しかし、盆地に立ち入った時点で、彼らはもう「軍隊」ではなかった。ただ、コープという名の巨大な免疫システムが排除すべき「異物」でしかなかったのだ。
泥沼に沈み、魔獣に蹂躙される帝国軍。
剣を振るう相手すら見当たらず、ただ自然の脅威に呑まれていくその光景は、戦場の風景というよりも、まるで荒れた庭から雑草を抜き取るような静けさを孕んでいた。
俺は、故郷に伝わる猿と蟹の逸話を思い出した。
蟹の子は親の敵を討つために「待った」。猿は自分から「飛び込んできた」。それだけだった。
この盆地もまた、平和を謳いながら、侵略者が自滅するのを「待っていた」のだ。
俺の隣で、オーエは深く深く、静寂の中で目を閉じた。
「これが我々の平和だ。我々は誰一人として傷つけず、しかし誰一人として踏み込ませぬ。法は盾となり、自然は牙となる。……戦わずして勝つことこそが、最も理にかなった『防衛』なのだから」
盆地の底から上がる悲鳴が、ようやく止んだ。
そこに残ったのは、泥と自らの血に染まった、かつて帝国最強を誇った重装歩兵たちの、瓦礫のような残骸だけだった。
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