5:バックグラウンドの免疫要塞
オーエが広場で数万の民衆からの悪意を一身に浴び、孤独な咆哮を上げていた頃。
コープの領土である盆地と、帝国側の領地を隔てる唯一の陸路――ノルズ山脈の「峡谷の入り口」では、急ピッチで大規模な土木工事が進められていた。
「おいコラ! そこのギアの噛み合わせが甘いぞ! ミリ以下の単位で削り直せ!」
ドワーフの親方の野太い怒声が、谷底に響き渡る。最初はフジワラの『平和主義』という提案に一番反発していた、一番頭の硬い土木職人だ。
彼らドワーフの職人たちが汗だくになって組み上げているのは、剣でも槍でもない。谷を流れる川を堰き止めるための、巨大な鉄と石の『治水水門』だった。
「親方、お疲れ。進捗はどうだ?」
俺が図面の束を片手に声をかけると、親方は首に巻いた手拭いで汗を拭いながら、忌々しそうに鼻を鳴らした。
「おお、フジワラの兄ちゃんか。……言われた通り、せっかく打った剣や槍を全部鋳潰して、このデカブツの歯車と補強材に変えてやったぜ。おかげで強度はバッチリだが……未だに納得いかねえな。丸腰になるってのに、なんでこんな辺境の川にバカでかい『農業用の水門』なんか要るんだよ?」
「農業用ってのは建前さ。これは、この国を守るための『インフラ』だよ」
俺は水門の巨大な堰を見上げながら、薄く笑った。
「帝国軍がコープへ大軍を送り込むなら、地形的に必ずこの峡谷の底を通らざるを得ない。……もし、奴らがこの谷底に密集したタイミングで、あの水門が『意図的に決壊』したらどうなると思う?」
親方がハッと息を呑み、谷のすり鉢状の地形と、水門の裏に溜まり始めている膨大な水量を交互に見比べた。
「……鉄砲水、か。しかもこの高さから一気に水を解放すれば、ただの水流じゃねえ。岩や大木を巻き込んだ巨大な泥流の壁になって、谷底の連中を補給線ごと綺麗に押し流しちまう……!」
「ご名答。俺たちは剣を振るわない。向こうから入ってきた異物を、大自然に処理させるだけだ」
「バッサバッサバッサ!」
その時、頭上の空から鋭い羽音が降り立ち、ハルピュイアの部隊が次々と峡谷の岩肌に舞い降りてきた。彼女たちの手には、植物の皮で編まれた奇妙な袋がいくつも握られている。
「フジワラ様! ご指示の通り、ノルズ山脈の奥地に生息している凶暴な『牙猪』の群れと、猛毒を持つ『殺人蜂』の巣の近くに、例の袋を仕掛けてきました!」
「ご苦労さま。風向きの計算はバッチリだな?」
「はい! でも、あんな臭いだけの木の実の汁で、本当に魔獣たちを操れるんですか?」
ハルピュイアの少女が不思議そうに小首を傾げる。
俺の肩の上で、ミニマム・ドラゴンが「きゅるる」と得意げに喉を鳴らした。
「ああ。俺の『手懐ける』能力の応用さ」
俺は図面の裏に描いた生態系の分布図を指差した。
「直接命令を出して魔獣を操れば、それは『軍事力の行使』と見なされる。だけど、魔獣たちが極度に興奮する特定の匂いを風上に落とし、意図的に『誘導』するだけなら、それはただの自然災害だ。奴らの進軍ルートにフェロモンの導火線を引いておけば、腹を空かせた魔獣や毒虫の群れが、勝手に帝国軍の重装歩兵を極上の餌と勘違いして襲い掛かる」
ドワーフの親方とハルピュイアの少女が、戦慄したように顔を見合わせた。
俺たちが作っているのは、軍隊ではない。
「人間の身体にはな、『免疫』っていう素晴らしい防衛機能があるんだよ」
俺は谷の入り口を――やがて帝国軍が足を踏み入れるであろう死地を見据えながら語った。
「体内に侵略者が入ってくると、白血球が自動的にそれを検知して、食い殺し、排除する。俺たちは一歩も外に出ないし、誰一人として前線で血を流さない。ただ、この国を、ルールを破って侵入してきた『異物』だけを自動で消滅させる、国家規模の『絶対免疫要塞』に作り変えるんだ」
オーエが表舞台ですべての政治的非難を引き受け、軍隊の解体を宣言する。
俺が裏舞台で知識をフル回転させ、平和主義という名の最も残酷な迎撃システムを構築する。
(待ってろよ、イル・ソンガ。お前がどれだけ完璧な大義名分を用意して攻め込んでこようが、この『見えない防衛線』は絶対に突破させない)
峡谷を吹き抜ける冷たい秋風の中、丸腰の国を守るための最強のトラップが、静かに、そして確実に完成へと近づいていた。
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