3:最大級のインストール
どんよりとした重苦しい沈黙が、執行部の秘密会議室を支配していた。
磨き上げられた円卓を囲むのは、俺とオーエ、そして各種族の代表たちだ。
窓の外からは、遠く議事堂前の広場に集まった民衆の、低く地鳴りのようなどよめきが未だに響いてくる。オーエへの「腰抜け」「弱腰」という罵声は収まる気配がない。
「……完全に手詰まりです。内と外から、完璧に挟み撃ちにされている」
オーエの秘書――エルフのセクレタがインクの染みた指先でこめかみを押さえ、忌々しそうに報告してくる。
「外では帝国の辺境部隊が、こちらの国境を越えさせようと下劣な略奪を繰り返しています。そして内では、その挑発にまんまと乗った『義勇軍』と大衆が、オーエの出撃拒否に激昂して暴動寸前です。帝王イル・ソンガ……我々の『国民主権』という開かれたシステムを、逆手にとってそこを突いてきました」
セクレタの指摘は、ぐうの音も出ないほど正しかった。
多数決で物事を決める民主主義において、「大衆の怒り」が臨界点に達すれば、たとえ指導者が静止しようとも、議会ごと主戦論へと押し流されてしまう。そうなれば国境を越えた義勇軍は帝国の正規軍に殲滅され、コープという国そのものが合法的に蹂躙される。
「イルの狙いは、我々に『先に手を出させる』こと、ただ一点だ」
オーエは椅子の背にもたれ、天井を見つめたまま、絞り出すように言った。
「私がどれほど非難を浴びようと、出撃を拒み続ければ、物理的には持ち堪えられる。だが、民の信頼を失った指導者の言葉など、やがて誰の耳にも届かなくなるだろう。法を、システムを守るために、システムそのものが内側から腐食していく……。フジワラ、お前の知恵でも、この盤面は覆せぬか?」
オーエの青い瞳が、すがるような、しかしどこか諦めを孕んだ光を湛えて俺へと向けられた。
俺は肩の上のミニマム・ドラゴンが「きゅぃ?」と心配そうに首を傾げるのを手で宥めながら、ゆっくりと立ち上がった。
「いや……まだ、最悪の侵略を逆手に取った『最大級のシステムハッキング』が残ってる」
俺は懐から、ボロボロになるまで使い込まれた一冊のノートを取り出し、円卓の中央へと放り出した。
現代日本の政治、歴史、法律――俺が生きるために書き殴ってきた、この世界の人間からすれば異界の魔導書にも等しいコードの塊だ。
「オーエ。お前たちがこれまで泥を啜りながら勝ち取ってきたもの、覚えてるか?」
「当然だ。奴隷からの解放、種族を超えた『平等の人権』。そして、みんなで国の未来を決める『主権在民』。すべてが今のコープの血肉だ」
「ああ、そうだ。だがな、今のコープのルールは、議会の多数決次第で、いつでも書き換えられちまう。もし明日、大衆の熱狂が勝って『人権を停止して軍隊を組織する』って法律案が可決されたら、この国は一瞬で帝国と同じ軍事独裁国家に逆戻りだ」
俺の言葉に、オーエがハッと息を呑んだ。
「だからこそ、インストールするんだ。法律よりも上、お前ら指導者(行政)の命令よりも上、そして『大衆の多数決(立法)』すらも絶対に侵すことのできない、この国の最上位にある絶対のコア・ルールを」
俺はノートの特定のページを指で叩いた。そこには、日本語で『憲法』と書かれていた。
「最上位の……絶対ルール?」
セクレタが羽根ペンを握ったまま、身を乗り出す。
「そうだ。どんなに民衆が熱狂しようが、どんなに天才的な指導者が現れようが、絶対に書き換えることも破ることもできない、国家の根幹コード――それが『憲法』だ。この憲法に『基本的人権』と『国民主権』を刻み込み、誰も壊せないようにシステムを固定する」
「なるほど……。民意という名の暴馬に、誰も外せない絶対の轡を嵌めるというわけか」
オーエの目に、急速に知性の光が戻ってくる。
「だがフジワラ、それだけでは今この瞬間に押し寄せている帝国の挑発と、義勇軍の主戦論という外圧は防げまい。奴らは今も、我々から戦争の口実を剥ぎ取ろうと目を血走らせているのだぞ」
「分かっている。だからこそ、その憲法の特等席に、イル・ソンガの計算を根底から叩き潰す『最悪で最強のバグコード』を実装するんだ」
俺はオーエの目を真っ直ぐに見つめ、一文字ずつ、明確に言い放った。
「我が国は、国家の権利としての戦争を永久に放棄する。そして、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を認めない」
「――――なっ!?」
静まり返っていた会議室に、セクレタの羽根ペンが床に落ちる高い音が響いた。
オーエは、まるで物理的な衝撃を受けたかのように目を見開き、言葉を失った。
「頭がどうかしたのですか、市民フジワラ……!」
セクレタが椅子を蹴立てて立ち上がり、激昂した。
「軍隊を持たず、戦う権利すら捨てるですって!? それは平和主義などではなく、ただの集団自殺です! そんな丸腰の看板を掲げれば、それこそ帝国軍に『どうぞ一方的に踏み潰してください』と差し出すようなものではないですか!」
「違う、逆だセクレタ」
俺は冷徹に、現代日本が歩んできたあまりにも奇妙で、しかし極めて合理的な『防衛線』の理屈を語り始めた。
「いいか、イル・ソンガが今一番恐れているのは、軍事的な衝突じゃない。コープの持つ『民主主義の概念』が帝国内部に流入することだ。だからこそ奴は、国際社会からの批判を避けるために、どうしても『コープが先に手を出した』という大義名分が欲しい。……じゃあ、もしこっちが『軍隊を完全に解体し、未来永劫、戦争を絶対にしない』と世界中に大々的に布告したらどうなる?」
オーエの身体が、微かに震え始めた。
「……帝国は、一歩も動けなくなる」
オーエが、掠れた声で呟く。
「そうだ。軍隊を持たない、一本の剣すら持たない共同体に対して、帝国の十万の正規軍が攻め込んでみろ。それは治安維持でも反乱軍討伐でもない、ただの『大義なき、残虐極まる一方的な虐殺』だ。そんなことをすれば、帝国の国内外の全勢力がイル・ソンガに牙を剥く。奴が最も嫌う『不条理なバグ』を、奴自身の陣営に引き起こすことができる」
こちらからは、絶対に撃たない。絶対に国境を越えない。
その代わり、相手からの『戦争の口実』を、概念ごと永久にハッキングして消滅させる。
「交戦権の放棄。……クク、ハハハハ!」
突然、オーエが顔を覆って低く笑い出した。その笑い声は次第に大きくなり、会議室の重苦しい空気を吹き飛ばしていく。
「凄まじいな、フジワラ。お前の故郷の先人たちは、正気の沙汰ではない。牙を自ら抜くことで、牙を持つ者を縛るというのか! これほど無慈悲で、これほど完璧な合理主義のコードを、私は見たことがない!」
オーエは笑いを収めると、鋭い、獣のような眼光で俺のノートを凝視した。
「気に入った。イル・ソンガが絶対の秩序を誇るなら、我々はその上を行く『絶対の理想』で奴の計算を狂わせてやろう。……よし、起草の準備をしろ。この『平和主義』という名の劇薬を、コープの核として構築する!」
外から響く大衆の怒号を背に、亡国の王子は、世界で最も危険で美しい『見えない防衛線』の起草へ向けて、不敵な笑みを浮かべた。
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