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2:割れる民意

バンッ!

最高議会の重厚な扉が、乱暴に蹴り開けられた。

議事堂に集まっていた各機関の代表者たち――そして傍聴席を埋め尽くす民衆の視線が、息を切らして駆け込んできた人間の若者に一斉に注がれる。


「ほ、報告します! 南の境界付近にある『灰の村』が、帝国の辺境守備隊に襲撃されました!」


その一言で、議場は水を打ったような静寂に包まれた。

報告に立った若者は、怒りで唇を震わせながら続ける。


「奴ら、武装して村に押し入り、冬越しのための備蓄や家畜を一方的に略奪していきました! 幸い死者は出ませんでしたが、『悔しかったら取り返しに来い、亜人の分際で生意気だ』と……!」


「……なんだと!?」

ドワーフの代表が、怒りのあまり机を叩き割らんばかりの勢いで立ち上がった。

それを皮切りに、議場の空気は一瞬にして沸点に達した。


「ふざけるな! 俺たちが血の滲むような思いで蓄えた食い扶持を!」

「今こそ打って出るべきだ! 俺たちには『コープ義勇軍』がある!」

「そうだ、やられっぱなしで黙っているなんて真っ平だ! 帝国に俺たちの力を見せつけてやれ!」


傍聴席に陣取っていた義勇軍の若者たちが一斉に拳を突き上げ、それに同調した民衆の怒号が議事堂のドームに反響する。

熱狂。激怒。そして、力を手に入れたことによる過信。


(……来た。イル・ソンガの野郎、一番最悪なタイミングで火をつけやがった!)

俺は執務席で爪を噛みながら、背筋に走る悪寒に耐えていた。

あえて誰も殺さず、ただ食糧を奪い、プライドを傷つけるだけの略奪。それは明確に「怒りで我を忘れさせ、国境線を越えさせるための挑発(トラップ)」だ。


「議長! 直ちに義勇軍の出撃許可を! 民意はすでに決しています!」

「戦争だ! 帝国をぶっ潰せ!」


三権分立を支える議場が、瞬く間に「主戦論」という一つの巨大な感情に染まっていく。

みんなに主権がある(国民主権)からこそ、多数派を占めた感情は、時に冷徹な理性をいとも簡単に圧殺してしまうのだ。


「――静まれ!!」


その時、議事堂をビリビリと震わせるような、鋭く、そして冷たい一喝が響き渡った。

壇上の中央。これまで黙って報告を聞いていたオーエが、青い瞳に氷のような冷徹さを宿して立ち上がっていた。


「出撃は許可しない。いかなる武力の行使も、国境を越える追撃も、一切を禁ずる」


オーエの放った絶対的な拒絶に、議場は一瞬静まり返り、やがて信じられないものを見るようなざわめきに変わった。


「な……なぜですか、オーエ様! 民が傷つけられているのですよ!?」

「今こそ、あなたの御旗の下に帝国を討つ時でしょう!」


「愚か者どもが」

オーエは民衆の熱狂を冷水で叩き切るように、低く凄みのある声で吐き捨てた。


「これは帝国が仕掛けた罠だ。少し頭を冷やして考えてみろ。ここで我々が怒りに任せて国境を越えればどうなる? 『辺境の暴徒が帝国の領土を侵略した』という、奴らが喉から手が出るほど欲しがっている完璧な『反乱軍討伐の大義名分』を与えることになるのだぞ」


オーエは議場を見渡し、一つ一つの言葉を叩きつけるように言った。

「我々はまだ小国に過ぎない。義勇軍などという烏合の衆が数千集まったところで、本国から差し向けられる十万の正規重装歩兵の前では、麦の穂のように刈り取られるだけだ。相手の土俵に乗れば、この国は数日で消滅する」


それは、為政者としてあまりにも正しく、冷酷なまでの「ファクト」だった。

だが――激昂した大衆に、正論は劇薬でしかない。


「烏合の衆、だと……? 俺たちは、この国を守るために立ち上がったのに!」

「大義名分がどうした! じゃあ、略奪された村を見捨てろって言うのか!」

「そうだ! 丸腰でやられろって言うのかよ!」


傍聴席から、オーエに向かって容赦のない罵声が浴びせられる。

これまで「希望の象徴」として彼を讃えていた民衆たちの顔が、今は怒りと失望に歪んでいた。


「オーエ様は変わってしまった! 帝国に立ち向かう王子の誇りを忘れたのか!」

「腰抜けの指導者なんていらないぞ!」

「出撃させろ! 俺たちの手で決める権利があるはずだ!」


飛び交う怒号。投げつけられる丸めた紙くず。

かつて、デマの嵐の中で彼を信じ抜いたはずの民衆が、今は自らの主権を振りかざし、彼を「敵」として糾弾している。


(オーエ……)


俺は思わず立ち上がりかけたが、オーエは俺に向けて小さく片手を上げ、それを制止した。

孤立無援の敵意を一身に浴びながら、彼は表情一つ変えず、ただ静かにその場に立ち尽くしている。

民主主義のシステムにおいて、「大衆の感情に逆らう指導者」がどれほど残酷な扱いを受けるか、彼はすべて承知の上で、自ら盾になっていた。


「……出撃は、許可しない。私は、お前たちを死なせるわけにはいかんのだ」


民衆の怒号にかき消されそうになるほど小さな、けれど決して折れることのない確かな決意の言葉を、俺だけが確かに聞き取っていた。

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