プロローグ:絶対秩序の焦燥
ソンガ帝国の首都、その中心にそびえ立つ白亜の宮殿。
天を突くような尖塔の最上階にある皇帝執務室は、昼なお暗く、ただ灯火が放つゆらめく光だけが室内の精密な調度品を照らし出していた。
部屋の中央に置かれた黒檀の机。その上で、若き皇帝イル・ソンガは、固く白い指先で象牙のチェス駒――『王』を弄んでいた。彼の端正な横顔は、彫刻のように冷たく、そして酷く張り詰めている。
「……播種者が敗北した、か」
ポツリと漏らしたイルの声には、怒りよりもむしろ、計算の狂いを無理やり修正しようとする冷徹な響きがあった。
数日前、北方の辺境を騒がせている反乱組織『コープ』へ送り込んだ最高位の工作員、「播種者」からの定期連絡が完全に途絶えた。それどころか、現地の情報部から届いた報告書には、イルの想像を絶する『ファクトチェック』という名の、冷徹な情報反撃の全容が記されていた。
9割の事実に1割の致命的な嘘を混ぜ、大衆の猜疑心を煽る。
それによってコープを内側から泥沼のポピュリズムへと引きずり下ろし、自壊させる――その完璧なはずの計算が、一枚の『新聞』と、フジワラという転移者が構築した異界の『ログ逆探知』によって完全に無力化されたのだ。
「信じることとは、盲目になることではない。事実を正しく知り、自分の頭で考え、正しく疑うこと、か……」
報告書に記されていた、コープの新聞編集長が放ったという言葉を、イルは忌々しそうに口の中で転がした。
「不合理だ。実に不条理極まりない」
パチン、と乾いた音を立てて、イルは駒を盤上へと戻した。
「大衆など、本来はただの無能なノイズに過ぎない。感情に流され、目先の利益に踊らされ、組織の判断を遅らせるだけの歯車だ。だからこそ、私という一人の圧倒的な天才がすべてを統べ、絶対の秩序で縛ることこそが、最も多くの命を救う唯一の正義。……それなのに、なぜあの辺境の暴徒どもは、事実を与えられただけで理性を保ち、より強固に連帯したのだ?」
イルにとって、コープが成し遂げた流言飛語の克服は、世界という数式における理解不能な誤りだった。
恐怖やデマで支配できない平民。自ら考え、自らルールを選び、統治を行う亜人たち。
――それは、思想という名の最悪の感染症だ。
もし、この『民主主義』などという甘美で危険な劇物が、帝国の足元にいる数百万の純人、そして奴隷として使役されている亜人たちの間に逆流入したらどうなるか。
帝国の誇る絶対の官僚機構は内側から腐食し、イルが築き上げた壮大な秩序は一瞬で崩壊するだろう。
「生かしてはおけない。概念ごと、物理的に叩き潰す他ない」
イルの青い瞳が、暗がりのなかで獣のように鋭く光った。
情報戦という見えない毒が効かないのであれば、残された手段はただ一つ。圧倒的な鉄と血による、軍事力の行使――完全なる殲滅戦である。
だが、皇帝となったイル・ソンガは、ただの野蛮な侵略者ではなかった。彼は法と言葉の持つ重みを誰よりも理解している。
「……だが、無闇に軍を動かせば、西の諸公国や北の教皇領が黙ってはいないな」
机の上に広げられた世界地図へ、イルは冷徹な視線を落とした。
現在のコープ領は、国際法(あるいは大陸間外交慣例)において、いまだ帝国の一部、あるいは法的なグレーゾーンとして扱われている。理由なき大軍の投入は、周辺の独立諸国に「次は我が国が蹂躙されるのではないか」という過剰な恐怖を与え、対帝国包囲網を形成させる口実になりかねない。
何より、大義なき侵略は、帝国内部の穏健な貴族や平民たちの反発を招く。完璧な統治を是とするイルにとって、国内外に『不当な暴虐』の汚名を残すことは許容し難いものだった。
「欲しいのは正当性だ。帝国が、平和を脅かす危険な反乱分子を『治安維持』のために討伐せざるを得なくなったという、誰も反論できない完璧な大義名分……」
イルは静かに思考の海へと潜り、やがて、その薄い唇を不敵に釣り上げた。
向こうが正義の仮面を被り続けるというのなら、その仮面を内側から引き剥がしてやればいい。
守るべき民が、豊かさと権利を手に入れたとき、次に抱く感情が何であるか――心理の法則はすでに弾き出されている。
「復讐だ。かつて我が軍に故郷を焼かれた亜人どもなら、必ずその火種を抱えている」
イルは机の上の呼び鈴を一度だけ鳴らした。
影のように音もなく、漆黒の衣服を纏った情報部の連絡官が室内に這い出てくる。
「は、イル様。御命令を」
「南方の国境警備部隊――とりわけ、血気盛んな連中が集まる第三大隊へ、密命を伝達しろ。コープとの境界付近にある村々で、小規模な略奪と挑発を繰り返せ、とな」
連絡官が、怪訝そうに頭を上げた。
「略奪、ですか? それではコープ側を刺激し、本格的な衝突を招くのでは……」
「それでいい」
イルは冷たく笑い、チェス盤の上の黒い騎士を、白の歩兵の目の前へと突き進めた。
「向こうから先に、我らの領土へ打って出させるのだ。自衛のためではなく、怒りに任せた『侵略の引き金』をコープ側に引かせる。……一度でもあいつらが国境を越えて牙を剥けば、その瞬間、彼らは平和な共同体ではなく、大陸の秩序を乱す『テロリスト』となる」
国際社会の批判は消え、帝国は正当防衛の大義名分を得て、十万の正規軍を合法的に辺境へ投下できるようになる。
「民草に主権を与えたツケを、その愚かな頭に教えてやる。オーエよ、フジワラよ。お前たちが作り上げた『民意』という名の暴馬が、自らの国を蹂躙する足音を、特等席で聞くがいい」
青白い光の中、若き皇帝はチェス盤を冷酷に見つめながら、静かに宣戦の布石を打ち下ろした。
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