9:深淵の告発、最後のパズル
議会を翌朝に控えた深夜、議事堂の地下は不気味なほどに静まり返っていた。
俺――フジワラは、執務室の壁に貼られた相関図の、最後にして最大のピースをピンで留めていた。手懐けたネズミたちが深夜の闇を這い回り、命懸けで持ち帰った移動ログ。それが示す、「播種者」の最終的な消滅地点。
それは、議事堂の地下深くに存在する、歴史の表舞台から忘れ去られた備蓄倉庫だった。
「……ここだ。この場所であの男はいつも、夜陰に紛れて誰かと密会している」
俺が地図の一点を指差すと、頭上のミニマム・ドラゴンが小さく「きゅいっ」と喉を鳴らし、俺の髪を軽く引っ張って促した。行こう、と相棒が言っている。
通路の曲がり角に潜むと、標的の姿が視界に飛び込んできた。深々とフードを被った男だ。奴は俺たちの視線に気づく様子もなく、壁の掲示板に貼られた、ギルバートの発行した『コープ時報』を忌々しそうに一瞥した。
そして、躊躇のない足取りで薄暗い下り階段へと消えていく。俺とミニマム・ドラゴンは、完全に気配を殺してその背を追った。
地下の備蓄倉庫。
カビ臭い空気の満ちたその空間で、重厚な鉄扉の隙間から、低く硬質な男の声が漏れ聞こえてきた。普段の議事堂では誰も聞いたことのない、酷薄な響きを帯びた声だ。
「……計画は最終段階だ。王子が撒いた『新聞』という名の武器は、かえって明日の議会で奴自身の首を絞める極上の燃料になる。三百ゴールドの隠蔽疑惑。あれは大衆に『王子もまた不透明な特権階級だ』と植え付ける、最高の手土産となった」
その言葉に応えるように、冷徹な別の声が闇の奥から重なる。
「帝国情報部としても、君の働きには深く感謝するよ、『播種者』。コープが内側から自滅してくれれば、我が軍の無駄な兵力を動かす必要もなくなる。……これが、今回の工作に対する報酬の残金、および次の扇動指示書だ」
扉の隙間から覗き込むと、フードの男の手元で、帝国の紋章が刻まれた重みのある金貨の袋と、緻密に書き込まれた羊皮紙がやり取りされていた。
「これさえあれば、明日の議会で『王子による民衆の搾取と隠蔽』を決定づけられる。コープという不合理な理想郷は、明日、大衆自らの手で終わりを迎えるのだ」
男の言葉には、一片の迷いも、揺らぎもなかった。
間違いない。こいつが、この街の動脈に不信という名の毒を注ぎ込み続けていた張本人だ。
俺は背後の闇に目をやった。そこには、俺の合図を静かに待っているギルバートと、防衛隊のハインツが立っていた。ギルバートが懐から取り出したのは、印刷機のインクの匂いが残る、刷り上がったばかりの「号外」だ。
まだ誰も中身を知らない、俺たちの逆転の切り札。
「……行こう。もう、引き延ばす理由はどこにもない」
俺が小さく頷いた瞬間、ハインツが獣のように足を踏み込み、力任せに鉄扉を蹴り破った。
倉庫内に轟音が響き渡り、土煙が舞う。
帝国の密使は即座に背後の隠し通路へと逃げ込んだが、ハインツがそれを追って瞬時に闇へと消えた。
そして部屋の中心、冷たい石畳の上には、逃げようともせず、ただ静かに佇むフードの男が一人。
男は取り乱すこともなく、ただゆっくりと俺たちの方へ振り返った。フードの奥の瞳が、暗がりの中で怪しく光っている。
俺は一歩前に出ると、微動だにしないその影を正面から見据えた。
「お前は完璧に隠れていたつもりかもしれないが、最初から言い逃れのできない足跡を残していたんだよ。――ドワーフ居住区への【臨時の二割補助金】。この数字に心当たりがあるはずだ」
フードの男は応えない。だが、拒絶の沈黙こそが肯定だった。
「あの夜、日付が変わる頃に議事堂の奥でその数字を最終決定したとき、その場にいたのは誰だ? 俺とオーエ、ギルバート……そして、書類の最終清算を任されていた役人だけだ。幹部しか知り得ないはずの【二割】という極秘の数字が、翌朝には寸分狂わず街の中傷ビラに書き殴られていた」
俺は一呼吸置き、さらに決定的な事実を突きつける。
「偶然を装うには、お前はあまりに動きすぎた。俺たちが仕掛けた偽の『税制改革の修正原案』をお前に手渡した数時間後、全く同じ内容が移動劇団の歌に仕込まれた。お前がその手で最新の情報を流したその時から、俺の小さなハッカーたち――手懐けたネズミや鳥の目と耳が、その通信と接触のバックログをすべて逆探知していたんだよ。――おい、いつまで怯えた文官のフリをしているつもりだ、サヴァラン」
重苦しい静寂が、倉庫内を支配した。
やがて、フードの男は小さく息を漏らした。それは、ため息というよりも、俺の「異世界ハッキング」の全容を理解したことへの、乾いた感嘆のようだった。
「……なるほど。まさか獣の目と耳をそこまでシステム化し、情報網として構築していたとは。それは完全に私の計算外だ、フジワラ」
男は自ら、ゆっくりと頭のフードを後ろへと払いのけた。
そこにいたのは、昼間、執務室で「無理です、私には荷が重すぎます」と涙目で泣きついていた、あの臆病で地味なアドバイザー、サヴァラン・ド・モールだった。
だが、その顔にはいつもの弱々しい面影など、ひとかけらも残っていない。
背筋をまっすぐに伸ばし、値踏みするような冷徹な光を湛えた青い瞳で、俺を真っ向から見下ろしている。その立ち居振る舞いは、洗練された帝国のエリートそのものだった。
「言い訳はしない。事実を揃えられた以上、それは無意味だ」
サヴァランは冷ややかに微笑むと、手元に残された帝国の金貨袋と指示書を、机の上に静かに置いた。まるで、チェスの対局で自分の歩兵が取られたことを淡々と受け入れるかのような、恐ろしいほどの冷静さだった。
「だが、フジワラ。お前たちの負けだ」
「何だと?」
「私の正体を暴いたところで、すでに大衆の脳内には『疑惑』という名の不可逆の毒が回っている。一度疑いを持った人間は、王子のどんな言葉も『言い訳』としか受け取らない。明日の議会、集まった民衆の憎悪の火は、お前たち自身が作ったその『新聞』によって限界まで燃え上がるだろう。……民主主義とは、大衆の感情で動く。ならば、彼らの感情を支配した私が、この盤面の勝者だ」
サヴァランの言葉は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
大衆の不完全さを知り尽くした、絶対的な自信。
「言葉の毒なら、すべてこの紙で中和させてもらうさ」
一歩前に出たギルバートが、インクの染みついた手で、印刷したての「号外」をサヴァランの目の前に突きつけた。まだ誰も中身を知らない、俺たちが夜通しで刷り上げた漆黒のインクの塊。
「これは……」
サヴァランの眉が、今夜初めて微かに動いた。
その瞳が、ギルバートの手元にある未知の紙面を、一瞬でなぞる。
「サヴァラン。お前が弄んだ大衆を、俺たちは信じる。感情で暴走するなら、俺たちは圧倒的な『事実』の暴力で、その頭を冷やしてみせる。――連れて行け」
俺の言葉と同時に、帝国の密使を完璧に組み伏せたハインツが戻り、サヴァランの両腕を無骨な力で拘束した。
サヴァランは抵抗せず、押し黙って連行されて行った。
見苦しい言い訳も、負け惜しみの捨て台詞ひとつ残さず、ただ無意味な行動を排除するように。
そのあまりにも乾いた、徹底したプロとしての態度に、俺の背筋を冷たい汗が伝った。こいつは、捕らえられた今この瞬間すらも、明日の議会で自分たちが勝つと確信しているのではないか――そんな底寒い戦慄が、俺の胸に去来した。
サヴァランが連れ去られた地下倉庫に、再び静寂が戻る。
壁の隙間から、かすかに白い朝の光が差し込み始めていた。
これが、コープという名の民主主義を賭けた、最後の審判の始まりだった。
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