2:牙を剥く言葉、あるいは踊る大衆
ミーシャの歌が街に響いた翌朝、コープの平穏は目に見える形でひび割れ始めていた。
「見てください、フジワラ様。広場の掲示板に貼られていたそうです」
議事堂の円卓に、記録官のギルバートが数枚の紙片を叩きつけた。普段は四角四面で感情を表に出さない彼にしては珍しく、その声には明確な憤りが混ざっている。
紙片には、歪な文字で『純人間の富を亜人に掠め取らせるな』『議会はエルフとドワーフに買収されている』といった、根拠のない中傷が書き殴られていた。
「昨夜から急激に市街のあちこちへ、組織的に貼られているようです。不当な配給手続きなど一切存在しないことは、私の記録が証明しているというのに……」
ギルバートが眼鏡の奥の目を鋭く光らせる中、俺は彼が持ってきたビラの一文に目を留め、喉の奥がヒリ ッと爆ぜるような強烈な悪寒を覚えた。
『売国奴の幹部どもは純人の血税を啜り、ドワーフの居住区だけ【特別補助金を二割上乗せ】する清算案を水面下で進めている!』
(……待て。何だ、この数字は)
背中に冷たい汗が伝う。
ドワーフ居住区への臨時の二割補助。それは昨夜、日付が変わる直前に、俺とオーエ、そしてサヴァランの三人で頭を突き合わせ、コークス不足を補うために計算したばかりの、まだ議会にも提出していない修正原案の数値だった。
なぜ、清書すら終わっていないはずの内部情報が、今朝の時点でビラに刷られて街に回っているんだ?
俺の困惑を余所に、円卓の端で紅茶をかき混ぜていた商業ギルド長のレナードが、わざとらしい溜息をついた。
「いやいや、ギルバート君。いくら君が書類で『潔白だ』と言い張ったところでね、商売の現場はもうガタガタなんだよ。現に今朝から、人間の商人がドワーフの鍛冶屋からの仕入れを拒否したり、エルフの薬草師が人間の客に売る値を釣り上げたりという騒ぎが頻発している。大衆ってのは、帳簿の数字じゃなく、感情で動く生き物だからね」
レナードはそう言いながら、俺とオーエに脂ぎった視線を向けた。
「オーエ様、フジワラ様。ギルドとしては、これ以上の経済混乱は御免被りたい。いっそのこと、混乱を助長しているあの歌姫ミーシャの劇団を街から追放するか、あるいは人間の商人たちをなだめるために、亜人向けの開拓融資を一時凍結してはいかがかな?」
「そんな差別的な処置、絶対に認められない!」
オーエが即座に拒絶する。しかし、レナードは「なら、この暴動寸前の市場をどう収めるおつもりで?」と、冷ややかに肩をすくめた。
そこへ、サヴァランが困り果てた顔で、おずおずと手を挙げた。
「あの……レナード様のおっしゃる市場の混乱も事実ですが、かと言ってミーシャ様を追放すれば、今度はハルピュイアや他の亜人たちが『それ見ろ、やはり人間は俺たちを弾圧する気だ』と激高し、それこそ暴動に発展しかねません……。ああ、どうすれば私の首が繋がるのか……」
サヴァランは頭を抱え、いかにも板挟みになった中間管理職の悲哀を全身で表現していた。彼の意見は、円卓の議論をさらに膠着させる。
「――だから言っただろう! 生ぬるい議論をしているからナメられるんだ!」
扉を蹴破る勢いで入ってきたのは、防衛隊のハインツだった。彼の背後には、殺気立った人間の防衛隊員たちが数名控えている。
「オーエ様、許可を! これより防衛隊を動かし、デマの温床となっている移動劇団の身柄を拘束、および広場で群がっている亜人どもの集会を力で解散させます! 秩序を守るためです!」
「待て、ハインツ! それでは本当に内戦になる!」
俺が制止するが、ハインツの目はすでに血走っていた。
「フジワラさん、あんたは外の世界から来たからわからないんだ。人間の平民たちは今、本気で怯え、怒っている。ここで幹部が動かなければ、俺たちが『裏切り者』として大衆に吊し上げられるんですよ!」
誰もが自分の信じる「正義」と「利害」を叫び、円卓は怒号に包まれていく。
俺は激論が交わされる中、ふとサヴァランを見た。彼は怯えた表情で縮こまりながら、飛んでくる怒号に「ひぇっ」と小さく身をすくめて書類の影に隠れている。
サヴァランはただ怯えているだけだ。ハインツは暴走しているが、コープへの忠誠ゆえ。レナードはいつもの強欲さで動き、ギルバートは生真面目に正論を叩きつけているだけ。……全員が、いつもの彼ららしい行動をしている。
なのに、どうして彼らの選択が、最悪の方向へ、まるで精密な歯車のように綺麗に噛み合っていくんだ?
俺は窓の外を見た。
広場ではすでに、人間と亜人の平民たちが互いに掴み合いの喧嘩を始めていた。
姿の見えぬ『播種者』の仕掛けた言葉の罠が、コープの強固なはずのシステムを、確実に内部から引き裂こうとしていた。
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その会話の、数日後。
「おい、街の酒場でまた新しい歌が流行り始めたらしいぞ」
執務室の簡易ベッドで泥のように眠っていた俺を揺り起こしたのは、血相を変えたコープの文官だった。
差し出されたメモに目を通した瞬間、俺の脳裏を、冷たい火花のような違和感がかすめた。
『亜人の血を引く者たちよ、騙されるな。コープの新しい税制は、純人の特権を守るための泥棒袋だ』
ミーシャ率いる移動劇団が今朝、広場で歌ったという風刺詩の文句。
大衆の嫉妬と恐怖を煽る、いかにも帝国好みの悪質なデマだ。だが、問題はその中身だった。
(……待て。コープの税制改革案なんて、昨日の夜、俺とオーエとサヴァランの三人だけで修正したばかりの極秘原案だぞ?)
まだ議会に提出するどころか、清書すら終わっていない。サヴァランが「これなら居住区の負担を一時的に減らせる、合理的な案です」と徹夜で叩き台を作っていた内容だ。
なぜ、わずか数時間後に、外部の劇団がその「修正内容」を正確に盛り込んだ歌を歌えているんだ?
「ギルバートの奴か……!」
文官が忌々しげに床を鳴らす。中央書庫の記録官であるあの偏屈エルフなら、議事堂の書類にアクセスする権限を持っている。
俺は文官の言葉に頷きつつも、胸の奥にこびりついた、割り切れない歪みに視線を落とした。
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