プロローグ:合理主義者の種蒔き
帝国の最南端、コープ領との境界にほど近い古びた砦の一室。
凍てつくような夜気の中、部屋の主であるイル・ソンガは漆黒の執務机の上で象牙のチェス駒を固い指先で弄んでいた。壁に掛けられた灯の光が、彼の冷徹な横顔を照らしている。
部屋の隅、影の濃い場所に、一人の男が深く頭を下げて跪いていた。
夜道を駆けてきたのだろう、男は泥に汚れた分厚い旅マントを羽織り、深々と被ったフードのせいでその素顔は一切うかがい知れない。現在、コープの内部へ深く潜入している帝国情報部の最高位エージェント――コードネーム『播種者』であった。
「……ポーンを一つ進め、盤面を膠着させる。これが『民主主義』の弱点か。実に興味深い、不合理なシステムだ」
イル・ソンガはチェス盤から目を離さず、低く静かな声を紡いだ。
「馬車を乗り継ぎ、国境を越えての直接報告だ。相応の成果を持ち帰ったのだろうな、播種者」
「は。行政、立法、司法が互いを監視し合うあの強固なシステムも、その根底にある『大衆の支持』という土台を揺るがせば、内側から容易に自壊します。その為の仕込みはすべて完了いたしました」
フードの奥から、低く乾いた男の声が漏れる。
「すでにあらゆる動脈に疑心暗鬼の種を蒔いてあります。私が民衆に与えているのは、九割の事実です。実際に生じている開拓地の小競り合い、食糧配給のわずかな優先度の差――それら事実のスープに、たった一割の『悪意ある嘘』を混ぜ合わせる。すると愚かな大衆は、自らその嘘を肥大化させ、勝手に踊り出します」
「先日の共同体の動きは見事だった。転移者フジワラの知恵か、亡国の王子オーエの求心力か……力による正面突破は、かえって彼らの団結を生む。だからこそ、今回は『言葉』の軍勢を送り込む。駒たちの動きはどうだ?」
「おもしろいほどに。……誰もが私の手のひらの上で、互いを『帝国のスパイ』だと疑いながら、勝手に引き金を引き合うことでしょう。コープの愚かな役人どもは、内側から燃え広がったこの火種の正体には、決して辿り着けません」
「素晴らしいな」
イル・ソンガは手にしていたチェスのポーンを、容赦なく盤外へと弾き飛ばした。
「人間は感情の生き物だ。どれほど対等な一票を与えられようとも、恐怖と嫉妬に直面すれば、論理的な思考など一瞬で放棄する。播種者よ、お前のその『仮面』、くれぐれも剥がされるなよ」
「御意に。私はこれより再びコープの街へと戻り、彼らの自滅を特等席で観劇することといたします」
男は音もなく立ち上がり、再び夜の闇の中へと消えていった。
一人残されたイル・ソンガは薄く微笑み、冷徹な青い瞳でチェス盤のキングを見つめる。
見えない言葉の兵器は、すでに解放された。
何も知らないコープの平穏な日常へと、静かに、しかし確実に、その牙を突き立てるために。
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