エピローグ:チェス盤の壊れた日
西海岸に漂う硝煙が、朝霧に溶けていく。
波打ち際に乗り上げた帝国の魔導舟艇は沈黙し、東の断崖を埋め尽くしていた鉄甲騎兵団は、退路を断たれて完全に潰走していった。
ソンガ帝国の「神速の独裁」に対する、反乱分子コープの「自律分散」による大勝利だった。
「……終わった、んだな」
掘っ建ての作戦本部の窓から、朝日が昇る海を見つめ、オーエがぽつりと呟いた。その瞳には、かつてナァノ王国を滅ぼされた時の絶望はもうなかった。
「ああ。イル・ソンガの乗った旗艦も、完全に撤退していったよ」
俺――フジワラは、ひび割れた水盆の横に腰掛けながら、深く、深く息を吐き出した。
今回の勝因は、どちらのシステムが「より完璧だったか」ではない。どちらのシステムが「より残酷な限界に耐えられたか」だ。
イルのシステムは、一人の天才がすべてを予測できる平時、あるいは計算通りの奇襲において最強だった。だが、現場の亜人たちが「通信の不通」を逆手に取って勝手に最適解で動き始めた瞬間、イルの脳には処理しきれない『ノイズ』が溢れかえった。結果、命令を中継する通信兵の脳を次々と焼き切り、帝国軍は自壊したのだ。
対して、俺たちの民主主義は遅い。欠陥だらけだ。
だけど、一人ひとりが「自分がこの国の主権者だ」という当事者意識を持っていたからこそ、中央の指示が途絶えた極限状態でも現場が自律して動き、奇跡的な反撃を成立させた。
「フジワラ。戦いは終わった。……ということは、だな」
オーエがどこか緊張した面持ちで、俺を振り返る。
「……ああ。約束通り、全権委任のタイムリミットだ」
俺たちが議場で数万人の民から買い取った『戦時の一時的な指揮権』。戦いが終わった今、その特権は速やかに返上されなければならない。そうでなければ、俺たちはただの「新しい独裁者」になってしまうからだ。
ガタゴトと、作戦本部の重い扉が開く。
入ってきたのは、泥だらけの戦斧を担いだドワーフの親方や、エルフの狙撃兵たち、そして立法議長のヒューだった。彼らの顔には、勝利の歓喜とともに、どこか張り詰めた「主権者」としての鋭い目が戻っていた。
「おい、オーエ、フジワラ。無事に帝国を追い払ったな」
ヒューが不敵に笑いながら、机の上にどさりと書類を置いた。
「約束通り、戦いは終わった。ここからはまた、俺たち全員の『お話し合い』の時間だ。――おいドワーフの親方、まずは東の崖の補修資材の配分について、今夜の総会でトコトン話し合おうじゃねえか」
「おう、望むところだ! エルフの連中に勝手な予算の組み方はさせねえぞ!」
早くも始まりつつある、騒がしく、非効率で、賑やかな議論の気配。
オーエはその光景を見て、一瞬だけ呆れたように肩をすくめ、それから本当に愛おしそうな笑みを浮かべた。
「……ハハ、手厳しいな。だが、これが私たちの国だ」
オーエは再び、あの山積みの書類タワーへと向かって歩き出す。
誰も使い捨てにしない。誰も歯車にしない。だからこそ、これからもゴミの捨て場所一つ決めるのに徹夜することになるだろうし、また不毛な口論に頭を抱えることになるだろう。
理想のシステムを維持するコストは、あまりにも泥臭く、そして気が遠くなるほどに高い。
だが、俺たちのシステム(民主主義)は、これから先も、この騒がしい世界で何度でも欠点を修正しながら、泥臭く稼働し続けていく。
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ソンガ帝国軍の巨大な旗艦は、静かに撤退の途上にあった。
本陣の天幕の中、かつてあれほど張り詰めていた魔導通信の低い音は消え失せ、残されたのは焼け焦げた魔力回路の悪臭と、冷たい静寂だけだった。
ガシャァン!!
激しい金属音が天幕に響き渡る。
イル・ソンガは、作戦机の上に並んでいた精巧なチェス駒のすべてを、猛然と床へ薙ぎ払っていた。
「……あり得ん。そんなことが、あってたまるか……!」
背後に控える高級将校たちは、見たこともない主君の激昂に完全に息を呑んで平伏していた。常に氷のように冷徹だったイルの双眸には、今や剥き出しの「憤怒」が燃え盛っている。
前線から命からがら戻ってきた伝令のログは、イルの予測のすべてを裏切るものだった。東の断崖のハルピュイアどもは、本陣からの命令を待つことなく、自分たちの即興の判断で崖を爆破し、帝国の誇る鉄甲騎兵団を生き埋めにしたのだ。
「現場の独断だと……? 上の指示も仰がず、統制もなしに、末端の烏合の衆が勝手に『判断』して動いただと!」
イルは怒りに身を震わせ、床に転がった白の歩兵の駒を 強く踏みつけた。
彼にとって、現場の人間が勝手に判断し、勝手に動くことこそ、世界で最も忌むべき「悪」であり、許容し難い不条理だった。
かつてナァノ王国の議場にいた無能どもがそうだった。誰もが勝手に自分の正義を主張し、勝手に判断を遅らせ、結果としてイルの両親を飢え死にさせ、妹のモノの身体を奪ったのだ。
大衆の判断など、常に不完全で、感情的で、組織を破滅に導くノイズでしかない。だからこそ、イルは一人の圧倒的な天才がすべてを統べる「絶対秩序」を築き上げたのだ。少数を歯車にしてすり潰してでも、上がすべてを決めることこそが、結果的に最も多くの命を救う唯一の正義だと信じて。
「命令のない軍隊など、ただの暴徒だ……! それなのに、なぜその暴徒の『思いつき』が、私の計算を、私の張り巡らせた作戦を凌駕するのだ……!」
ハルピュイアたちが「通信が途絶したから、自分たちで考えて動いた」という事実そのものが、イルの思想の根底を真っ向から否定していた。
王の命令を待つだけの帝国の精鋭兵たちが、自分で考え始めた数万人の主権者の前に、呆気なくオーバーヒートを起こして自壊した。それが今回の敗北の、あまりにも認め難い解析だった。
イルは拳を血がにじるほど強く握りしめ、荒い呼吸を繰り返した。
天才の頭脳ですべてを縛る完璧なシステムは、個々の意志という予測不能な可能性に敗北した。しかし、イルはその結果を「美しい民主主義の勝利」などと認めるつもりは、毛頭なかった。
「……全軍に告ぐ。帝都へ引き返す」
イルはそれ以上、何も言葉を発しなかった。
ただ、床に落ちた、中央で真っ二つに割れた黒い騎士の駒を、これ以上ないほどの嫌悪と怨嗟を込めて、軍靴の底で粉々に踏み潰した。
彼はその場に残された破片を一瞥もすることなく、激しい憤怒と拒絶をその胸に抱いたまま、天幕の奥へと去っていった。
(亡国の王子とチート転移者は〈民主主義〉で圧政に反逆します 第四話・完)
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