1:君主のチェスボード
白磁のチェス盤の上に、不釣り合いなほど無骨な鉄製の駒が置かれている。
それはかつて「ナァノ王国」と呼ばれた地から、戦利品として奪い取った兵隊の駒だった。
「――以上が、西海岸および上空における局地戦の報告にございます。我が方の包囲網は、亜人どもの『空海同時物流』という想定外の攪乱により無力化。反乱分子「コープ」どもの、事実上の出し抜きを許しました」
帝都ソンガの謁見の間。
跪く斥候の震える声が響く中、イル・ソンガは無言で鉄の駒を指先で弄んでいた。
「……想定外、か」
イルの低く、しかし驚くほど透き通った声が玉座の間を支配する。
居並ぶ帝国の上級将校たちが、一斉に肩を強張らせた。彼らは知っている。この若き独裁者が「想定外」という言葉を何よりも嫌うことを。
「ハルピュイアに物理空輸をさせ、セイレーンに浅瀬の座礁地帯を案内させる。なるほど、面白い手だ。魔法の火力ではなく、物流の目詰まりを解消することで、我々の包囲網というシステムを完全に機能不全に追い込んだわけだ。だが――」
パチン、と乾いた音が響く。
イルが指先で弾いた鉄の駒は、チェス盤の枠外へと虚しく転がり落ちた。
「これを『想定外』の一言で片付けるお前たちの無能さは、私の想定内だよ。下がれ」
弁明の機会すら与えられず、斥候は引きずり出されるように退室していく。
静寂が戻った室内に、将校の一人が恐る恐る進み出た。
「イル様、いかがなさいますか。たかが亜人と人間の混成組織とはいえ、これ以上の増長は帝国の威信に関わります。ただちに倍の兵力を投入し、力で圧殺すべきかと」
「無意味だ。兵の数を増やせば、それだけ命令の伝達に時間がかかる。それではあの組織の『速度』には勝てん」
イルは玉座から立ち上がり、窓外に広がる帝都の壮大な景色を見下ろした。
かつて、この地は「ナァノ王国」という、優柔不断で平和呆けした国だった。王族たちは何をするにも「話し合い」を重んじ、民の意見を聞くという建前の元で、延々と議論を繰り返していた。
――その結果、何が起きたか。
十年前の大飢饉の際、王族たちは救済の優先順位と手順を「議論」することに数ヶ月を費やした。
国境を接する他国からの略奪に対し、防衛の是非を「全会一致」で決めるために一歩も動かなかった。
その『遅滞』という名の悪が、どれほどの命を間引き、どれほどの絶望を生んだか。
(議論は、弱者を殺す。決断できぬ無能が責任を先送りするための免罪符に過ぎない)
イルは自らの胸に刻まれた、生涯消えぬ憎しみを思い出す。
だからこそ、彼はクーデターを起こし、王族を根絶やしにした。一人の完璧な天才がすべてを統べ、最速で最適解を執行する「絶対中央集権」――それだけが、この残酷な世界で、弱者を最も効率的に救う唯一の正義だと確信したからだ。
重責も、血の汚れも、歴史の悪名も、すべて自分が背負えばいい。
ただ一人の君主の頭脳が、世界を狂いなく回し続ける。それが帝国の本質だった。
「ナァノの生き残り……オーエ、といったか」
イルの脳裏に、かつて取り逃がした王子の顔が浮かぶ。
あの小童が再び、あの呪われた「話し合いの思想(民主主義)」を掲げて国を興そうとしている。一人の独裁を否定し、民全員に主権を持たせるなどという、かつての停滞の再来を。
「二度と、あの地獄には戻させん。世界を再び『遅滞』へ逆行させようとするならば、私が直々にその芽を摘む」
イルは振り返り、将校たちへ冷静に告げた。
「全軍に通達。これより、私が直々に前線指揮を執る。ソンガ帝国の総力を挙げた同時多面侵攻を行う。組織の『速度』の差を、思い知らせてやる」
それは、世界で最も孤独な独裁者が、自らの正義を証明するために放つ、最初の一手だった。
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