2:豊かさが生んだ「綻び」
空と海のルート開拓が決まり、俺とオーエがそれぞれ出発の準備を進める中――コープの拠点である隠れ洞窟には、活気と同時に、今までになかった「妙な熱気」が立ち込め始めていた。
「おい、エルフの姉ちゃん。今月の分配金、人間の取り分が少なすぎるんじゃねえか?」
市民登録名簿を広げるセクレタリアの前に、麓の開拓村からやってきた一人の若者が、腕を組んで立ちはだかっていた。
若者の名前はヒュー。開拓村の村長の息子であり、(彼らの言葉を借りるなら)純人だ。
泥にまみれた作業着を着てはいるが、その引き締まった体躯と、どこか聡明さを感じさせる強い瞳には、村の若手たちを惹きつける圧倒的な「人望」のオーラがあった。実際、彼の後ろには、数人の人間の農民たちが神妙な顔で控えている。
「お待ちください、ヒューさん」
セクレタリアが冷静に書類をめくった。
「ドワーフの皆さんは、紙の品質を均一にするための高度な技術労働を担当されています。これはコープ基本法に基づき、労働の専門性に応じて――」
「法だかなんだか知らねえが、最初にオーエ王子に声をかけられて、命がけで物資を運んだのは俺たち人間の村だぞ」
ヒューは静かに、しかし力強い声でセクレタリアの言葉を遮った。
「ドワーフやエルフが偉いって言いたいのか? 俺たち人間が下から重い木材や泥を運んでこなけりゃ、そこの大釜だってただの鉄クズだ。汗を流した量なら、俺たちのほうがよっぽど多いはずだぜ」
「それは……!」
「なんだと、この若造が!」
奥からバリスタが、へっ、と鼻を鳴らして歩いてくる。
「俺たちの技術がなけりゃあ、インクの乗る極上の紙なんざ一枚も作れねえんだよ。文句があるなら、てめえらだけで紙を作ってみやがれ」
「ああ、作れるもんなら作りたいさ。実権を全部亜人に握られたままじゃ、俺たちの生活はいつまで経っても帝国の奴隷だった頃と変わらないからな」
ヒューの言葉に、後ろの農民たちが小さく頷く。
彼の言葉には、悪意や私利私欲というよりも、「自分の仲間(人間)の生活を守りたい」という生真面目な正義感があった。だからこそタチが悪い。人間側の信頼が一身に集まっているのが、見ていてよく分かった。
「……急成長した組織の、内なる歪み、か」
俺は遠目からその光景を見て、小さく溜息をついた。
最初はみんな、共通の絶望から必死に手を組んでいた。だけど、手元に「余剰分の金貨」が残るようになると、今度は『身内の利権』の要求が頭をもたげてくる。
ヒューはこちらに気づくと、小さく一礼して、農民たちを引き連れて洞窟の出口へと戻っていった。その背中を見送りながら、俺は冷や汗が流れるのを止められなかった。今はまだ小競り合いだが、俺たちが留守にする間、彼が人間たちの不満を束ねてどれだけの勢力になるか、想像するだけで恐ろしい。
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「……ヒュー、といったな。あの若者、なかなか良い目をしている」
荷物をまとめる私の横で、フジワラが心配そうに「のんきなこと言ってる場合かよ」と愚痴をこぼした。
「一人のカリスマによる統治は、これ以上の規模には耐えられません。お二人の不在中に、彼が人間の不満を一つに掌握し、組織を切り崩しにかかるのは目に見えています」
声の主は、私の背後に音もなく控えていたセクレタリアだ。
今回は、私が西の海の開拓、フジワラが東の空の開拓へとそれぞれ別行動をとる。
私は体力・運動神経が皆無な上に、イル・ソンガ帝国から指名手配されている身だ。隠密技能と卓越した実務能力を持つセクレタリアを、護衛兼秘書として同行させるのは必然だった。
「クク、分かっているさ、セクレタリア。だが今は時間が惜しい。留守の間の利害調整は、ひとまずバリスタたちに任せるしかないな」
「おう、任せとけ。と言いたいところだが、オーエ。俺も留守にするぜ」
大槌を肩に担いだバリスタが、ガハハと笑いながらフジワラの横に並んだ。
「えっ、バリスタも行くの?」とフジワラが目を丸くする。
「当たり前だろ! 東の断崖絶壁なんざ、どんな危険な魔獣や崖崩れがあるか分からねえんだ。お前みたいなひょろ高いだけの人間が一人で行ってみろ、一瞬で干物になっちまう。いざって時の物理担当が必要だろ?」
「それは、確かにありがたいけど……」
「それに、バリスタが行くなら、私も絶対に行くからね!」
バリスタの外套の陰から、ひょっこりと小さな女の子が顔を出した。バリスタの孫娘、ミリィだ。くりくりとした大きな目で、フジワラの服の裾をぎゅっと掴んでいる。
「こら、ミリィ、お前は危ねえから洞窟に――」
「嫌だ! おじいちゃんが行くなら、ミリィをおいて行っちゃ嫌だ! フジワラのお手伝いもするもん!」
ミリィが涙目で訴えると、さしもの頑固ドワーフも「うぐっ」と声を詰まらせ、「……しょうがねえ、ミリィを置いてはいけねえな。フジワラ、こいつも連れてくぞ」と一瞬で折れた。
ドワーフらしい、実になんとも微笑ましい家族愛だが、これで陣形は決まった。
「よし。体制は整ったな」
私は外套を翻し、一同を見渡した。
「私とセクレタリアは西の海、セイレーンの入り江へ。フジワラ、バリスタ、ミリィは東の崖、ハルピュイアの集落へ。――ヒューがこの拠点でどれほど人間どもの支持を集めようと、私たちが空と海の完璧なインフラを持ち帰れば、すべての利害関係は一撃で上書きできる」
「そうだね。……よし、バリスタ、ミリィ、行こうか!」
「おう!」
「うん!」
フジワラが肩のミニマム・ドラゴンを落ち着かせ、ドワーフの祖孫を連れて歩き出す。
「では王子、私たちも参りましょう。遅れをとれば、あのひょろ高い転移者に笑われますので」
「ふん、セクレタリア。私を誰だと思っている。行くぞ、海の魔女どもに、本物のカリスマを見せてやる」
私たちはノルズ山脈の分岐点で力強く拳を突き合わせると、それぞれ東の断崖、西の入り江へと足を踏み出した。
ヒューという名の不穏分子が静かに牙を研ぎ始める中、コープの未来を賭けた、二方向の電撃交渉が幕を開ける。
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