8:黒いインクと白い黄金
「――ってわけで、法律は決まったものの、全員がいつでも読めるように書き出すための『インク』がない、と」
俺は腕を組み、ドワーフたちが持ち寄った鉄のバケツを見つめていた。
この世界にインク自体は存在するが、重くて割れやすい陶器の壺に入れて保管されるのが普通だ。奴隷工場から命からがら脱走してきた彼らが、そんなものを携行しているはずもなかった。
「インクがなければ、法を布告することも、あの『新聞』とやらで帝国の民を啓蒙することもできんぞ、フジワラ。どうにかしろ」
オーエが美しい眉をひそめて、無茶振りの視線を送ってくる。俺は苦笑しながら、バリスタとセクレタリアを振り返った。
「まあ、俺の世界の大昔の知恵だけどさ。……バリスタの爺さん、炉の底から『煤』をかき集めてくれ。それとセクレタリア、森から粘り気のある『植物油か樹液』を採ってきてほしい」
「煤と、植物の油……? そんなもので何をするのですか?」
集められた黒い煤に、ドロリとした植物油を混ぜ合わせ、ドワーフの怪力で徹底的に練り上げてもらう。
完成したのは、ツヤツヤと黒光りするドロドロの液体――即席の「油性炭素インク」だ。試しに、バリスタが試作した第一号の『紙』に、木の棒の先で文字を書いてみる。
羊皮紙とは違い、植物の繊維がインクをグングンと吸い込み、指で擦ってもまったく滲まない。
「……おい、嘘だろ。これ、乾いたら絶対に消えねえぞ! 羊皮紙みたいにインクを弾かねえ!」
バリスタが、紙に染み込んだ黒い文字を驚愕の目で見つめた。ドワーフの技術とエルフの自然が混ざり合い、最初の成文法を記すための不滅のインクが完成した瞬間だった。
「よし。これでノートの消えかかった名前もハッキリ書き直せるし、紙さえ量産できれば街で売ることだってできるな。羊皮紙は高いし、これが売れれば自給自足のサバイバル生活から抜け出して、肉や服も買えるようになるかも……」
俺がそんな「目先の生活費」の皮算用をボソッと呟いた、その瞬間。
俺の隣でインクの吸い込み具合を凝視していたオーエの青い瞳が、カッと見開かれた。
「――待て。売るだと? 街で流通させるというのか、フジワラ」
「え? ああ、うん。これだけ安く大量に作れるなら、絶対みんな欲しがると思って……」
「クク、クハハ……! 凡人め、貴様はとんでもない『国家転覆の毒』を思いついたぞ!」
オーエが突然、自身の美しい髪を天に掻き揚げ、狂おしい笑声をあげた。また始まったよ。
「おい王子、何をそんなに興奮してやがる。こんな便利なもん市場に流してみろ、すぐに帝国の役人が『脱走奴隷の仕業だ』と気づいて、経済封鎖や軍隊を差し向けてくるに決まってるだろ」
バリスタが警戒して眉をひそめるが、オーエの思考速度はすでに遙か先、帝国の内臓を喰い破るスキームを構築していた。
「ならば『気づかせない』か、あるいは『気づいても手遅れ』な状態を作ればいいだけだ、バリスタ。ステップは二つある」
オーエは不敵に微笑み、細い指を一本立てた。
「第一に、我々が直接売るのではない。人間の街の『欲深い商人ギルド』を抱き込む。奴らに独占販売権をチラつかせて産地を偽装し、商人の流通網を使って、これは『東方の未開の地から仕入れた珍しい高級革の代用品』として綺麗にロンダリングさせるのだ。これで出所は隠蔽できる」
さらに、オーエは二本目の指を立て、その瞳に冷徹な光を宿した。
「そして第二ステップ。その商人を経由して、帝国の『末端の役所』にこの紙を格安で流れ込ませる。帝国の役人どもは、毎日の膨大な税金の計算や報告書を、重い木簡や高い羊皮紙で処理してウンザリしているはずだ。そこに、軽くてペンが走り、何より『バインダーで綴じて管理できる紙』を突きつける。……奴らはもう、紙なしの役務には戻れなくなるぞ」
「あ……」
俺は思わず息を呑んだ。
便利すぎて、もはや帝国自身の手で流通を禁止することができない状態――【インフラ依存】。帝国が我々の存在に気づいた時には、すでに彼らの足元の官僚組織(現場)が、我々の作った『紙』なしでは一日も機能しない体になっているというわけだ。
「さらにだ、フジワラ。貴様が言った通り、紙が売れれば莫大な帝国通貨が手に入る。ならば、近いうちに接触することになる麓の『人間の農民たち』へのアプローチも一変する」
オーエは地面の地図の一点を指差した。
「いくら私が立派な演説(理想)を垂れたところで、貧しい平民どもは亜人と手を組むのを怖がるだろう。だが、そこに現実を突きつけるのだ。『我々の紙の原材料になる木を切り出し、運んでくれた者には、帝国の役所が提示する倍の日給をこの金貨で支払う』とな!」
「……!!」
セクレタリアがハッとして息を呑む。
「人間だから、亜人だからではない。飯を食わせてくれるルール、自らの生活を豊かにしてくれる『市民の連帯』に、困窮した農民どもは喜んで雪崩を打って参加するはずだ。理想で惹きつけ、経済で縛る。完璧な戦略だな、フジワラ!」
「いや、俺そこまで考えてないんだけど……」
俺の呟きなんて耳に入っていない様子で、オーエは即席のインクをペンに浸し、ノートに力強く法律を書き写し始めた。
「バリスタ、セクレタリア! 今すぐ製紙プラントの本格始動に掛かれ! 我らの『白い黄金(紙)』で、帝国の足元を文字通りすくい上げてやるぞ!」
「ガハハ! 面白い、そのえげつねえ企み、職人として乗っかってやるわ!」
「はい、市民オーエ。……私たちの、経済の戦いを始めましょう」
一冊の『羊皮紙のノート』から始まった小さな反逆は、天才オーエの脳髄によって、帝国そのものをハッキングする巨大なインフラ革命へと姿を変えようとしていた。
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