1:世界で最初のノート
「ひっ、ひぃ……! 待て、フジワラ! なぜ、この私が、このような重い荷物を背負わねばならんのだ……。足の裏が、すでに水ぶくれで崩壊を始めている……!」
「お前が背負ってるのは自分の着替えが入った軽い布袋だけだろ! 俺なんか手製の荷車にエルフたちの分の水と食料を積んで引いてんだぞ! ほら、ぐずぐずしてると帝国兵に見つかって首を吊るされるぞ!」
深夜の暗い獣道を歩きながら、俺はハァハァと犬のように舌を出しそうな王子様を叱り飛ばしていた。
奴隷収容所を襲撃し、五人のエルフを救出してから一週間。
俺たちは、目と鼻の先にある孤児院の地下室に彼女たちを匿い、息を潜めて生活していた。だが、奴隷が全員脱走したという前代未聞の事態に、街の中にいる帝国兵たちの動きは日に日に血生臭くなっていった。
捜索網が狭まり、ついに孤児院のすぐ近くの街道に臨時の検問所が作られ、明日には敷地内に兵たちが『挨拶』と称して踏み込んでくるという情報を院長先生が掴んできたのだ。
ここにこれ以上いれば、優しい院長先生も、孤児院の無邪気な子供たちも、全員が「大逆罪の協力者」として皆殺しにされてしまう。
だからこそ、俺たちは今夜、急遽そこを発つ羽目になったのだ。
俺の夢見た、平穏でのんびりとした辺境スローライフは、名実ともに完全な過去のものとなった。すべては、このゴミ山から拾ってきたポンコツ王子のせいである。肩の上の相棒、ミニマム・ドラゴンが「キュウ……」と同情するように俺の頬に頭をすり寄せてきた。
数時間の強行軍の末、俺たちは事前に俺が【魔獣テイム】の能力で『マウンテン・ウルフの群れ』と交渉し、彼らの縄張りの中で安全を確保しておいた山間の小さな洞窟へと滑り込んだ。
「ひとまずここに隠れよう。帝国の哨戒兵も、狂暴な魔獣の縄張りの奥深くにまでは滅多に入ってこないからな」
手製の荷車を下ろし、俺はぐったりと湿った地面に倒れ込んで息を絶え絶えにしているオーエの横に、トサリと腰掛けた。
少し離れた洞窟の壁際では、救い出したエルフたちが、気配を消すようにして身を寄せ合い、地面に小さく丸まっている。
彼女たちの顔には、一週間前のような、光を完全に失った絶望の目はなかった。あの収容所の夜、オーエの熱い大演説に脳髄を灼かれ、自分たちの意志で檻の木格子を破って外へと踏み出したのだ。その瞳には、確かに小さな、しかし消えない意志の火が灯っている。
だが、安全な洞窟に落ち着いた瞬間、彼女たちが取った行動は、俺の胸の奥にどうしようもない違和感を抱かせるものだった。
「あの、オーエ様」
案内役を務めてくれた金髪のエルフの少女――セクレタリアが、おずおずとオーエの前に歩み寄り、冷たい地面の上にその細い膝をついた。
「何だ、セクレタリア。遠慮せずに語るがいい」
オーエは地面に倒れ込んだまま、息も絶え絶えになりながらも、声だけは無駄に威厳を保って答える。セクレタリアはそんな彼の姿に、狂信的とも言えるほどの深い敬意を込めた瞳を向け、深く頭を下げた。
「私たちは、これからどこへ向かい、どうすればよろしいでしょうか。偉大なるナァノ朝の王族であらせられる貴方様が、あの傲慢なる帝国を討つために新たな『軍勢』を組織されるというのであれば、私たちはその手足となり、尖兵として、いつでもこの命を捨てる覚悟はできております。どうか、私たちに次のご命令を……」
彼女の言葉に、後ろに控える他の四人のエルフたちも、当然のように一斉に平伏する。
その光景を見つめながら、俺の胸の奥には、どうにも拭いきれない「強烈な居心地の悪さ」がモヤモヤと居座っていた。
確かに彼女たちは、帝国兵の鞭からは逃れた。檻の扉もこじ開けた。
だけど、彼女たちの心の中には、まだ帝国に刻まれた「見えない奴隷の首輪」が、あるいはこの世界に蔓延する「身分意識の壁」が、しっかりと繋がれたままだったのだ。
彼女たちは自由になったんじゃない。ただ、主人が『帝国の役人』から『亡国の王子』に変わっただけで、自分たちを『命令を待つだけの卑しい亜人』だと諦めている根底は、何一つ変わっていない。
俺はため息をひとつ吐くと、背負っていた荷物の中から、一冊の「白紙のノート」を取り出した。孤児院を出る際、院長先生が「何かの役に立ててくれ」と譲ってくれた、羊皮紙を束ねただけだが、この世界ではちょっとした高級品らしい。
「なあ、オーエ。ちょっと、お前のその天才的な知恵を貸してくれ」
「何だ……。今の私は、脳に供給されるべき魔力が完全に枯渇している(ただの運動不足である)。手短に頼む、フジワラ……」
「これじゃ、檻の場所が変わっただけだと思うんだよ」
俺の言葉に、オーエが片目を細めてこちらをじろりと見た。
「セクレタリアたちは、今もお前に『命令』を求めてる。このままだと、お前がこれからどれだけ熱い『民主主義』の演説をぶちかましたところで、彼女たちは『オーエ様が言うから投票する』だけの、ただの操り人形になっちまう。それじゃ、独裁者の名前が変わっただけだろ? お前が本当にやりたいのは、そんな底の浅い復讐劇なのか?」
オーエは泥まみれの顔のまま、ハッとしたように上体を起こした。その青い瞳に、驚きと、それからゾワリとするほどの深い納得の色が混ざり合う。
「……ほう。異界の凡人にしては、身震いするほど核心を突くではないか、フジワラ。確かに、私の思想を真に機能させるには、それを受け取る側の『器』が必要だ。彼ら自身の心の首輪を外さねば、彼らはただの信徒であり、私の目的を果たすための真の兵器にはなり得ん」
「だからさ、俺の世界の歴史にあった仕組みを、ちょっとこの世界向けに超解釈して使いたいんだ。このノートに、ここにいる全員の名前を書く」
俺は炭のペン(手が汚れて仕方ないが、携行できる筆記具はコレしかないらしい)を取り出し、ノートの最初のページに、自分の名前をはっきりと書き込んだ。
『フジワラ・レン』
「これは、誰の所有物でもない、自分自身の主としての証明書だ。俺の世界では『戸籍』って呼んだりする。この世界じゃ、亜人は帝国の『所有物』だろ? だけど、このノートに名前を刻んだ瞬間から、その人間は、誰のものでもない『独立した一人の市民』になる。王子のお前も、異界人の俺も、エルフのセクレタリアも、このノートの上では完全に『対等な権利』を持つ。……どうかな、王族としては、プライドが許さないか?」
俺が少し意地悪く笑ってみせると、オーエはしばらくの間、そのノートに書かれた俺の名前を凝視していた。
やがて、彼の薄い唇が、狂おしいほどの歓喜と興奮に歪む。
「クク……、ハハハハ! 許さないわけがなかろう! 素晴らしいぞ、フジワラ! 貴様は本当に、時として私以上に恐ろしいシステムを思いつく! 『四民平等』……いや、この世界における『全種族平等』の概念を、たった一冊のノートで具現化し、強制的に他者と対等な地平へ引きずり出すとはな!」
オーエは俺の手から炭のペンをひったくると、俺の名前のすぐ隣に、流麗な文字で己の名を迷いなく書き殴った。
『オーエ・ド・ナァノ』
「いいか、エルフの戦士たちよ。全員、ここへ来い!」
オーエの突き抜けるような美声が、洞窟の岩壁に反響する。驚いて身をすくめるエルフたちに、オーエはノートを突きつけるようにして言い放った。
「私はたった今、ナァノ朝の王子としての身分を、このノートの上に捨てた! 今の私は、ただの『市民オーエ』だ! セクレタリア、貴様も来い! 己の名をここに刻み、私は貴様の主人ではないと、貴様自身の主は貴様自身であると、その手で証明してみせろ!」
セクレタリアは息を呑み、震える足で一歩、また一歩とオーエに近づいていく。
だが、手渡された炭のペンを見つめる彼女の指先は、小刻みに、しかし激しく震えたまま動かなかった。
「……フジワラ様、私……自分の名なら、かつて人間の貴族に買われていた時期に、見せ物としての教養として仕込まれたため、辛うじて書くことができます。ですが……」
セクレタリアは、後ろで不安そうに顔を見合わせる仲間たちを振り返り、申し訳なさそうに俯いた。
「後ろの者たちは、帝国の文字が読めず、書くこともできません。亜人の集落には独自の言語はあっても、それを記す文字を持たないのです。文字が書けない私たちは……やはり、このノートに拒絶されてしまうのでしょうか」
ハッとして、俺は自分の配慮不足を恥じた。
そうだ。この世界の識字率は、お世辞にも高いとは言えない。特に奴隷や平民、ましてや人間に弾圧されてきた亜人にとって、文字とは「支配層(貴族や役人)が自分たちを縛り、税を毟り取るための道具」でしかなかったのだ。自分自身の名前を綴る術すら、彼女たちは持っていない。
文字が書けない人間は、民主主義に参加できないのか?
――そんなわけがない。俺の世界の歴史だって、それを乗り越える泥臭い工夫をいくつも重ねてきたんだ。
「――気にするな。書けないなら、俺が代わりに書く」
俺はセクレタリアからペンを受け取ると、彼女から名前の響きを聞き取りながら、ノートに一文字ずつ丁寧に文字を刻んだ。
『セクレタリア』
そして、彼女の炭に汚れた指先を見ながら言った。
「代わりに、その炭を、名前の横にギュッと押し付けてくれ。文字が書けなくても、この指の模様は世界にお前一人だけのものだ。これが『確かに自分の意志で、ここに名前を残した』っていう、お前たちだけの最高の証明になるからさ」
「指の、模様……」
セクレタリアは驚いたように目を見張ったが、やがて小さく頷くと、自分の名前のすぐ横に、力強くその指紋を押し当てた。
その瞬間、彼女の目から、大粒の涙がポロポロと地面にこぼれ落ちた。
それは、奴隷としての絶望の涙ではない。自分の人生を、自分の足で歩き始める覚悟を決めた、世界で最初の『市民』の涙だった。
「さあ、みんなの分も書くぞ。名前を教えてくれ!」
俺が呼びかけると、文字の書けない四人のエルフたちも、涙を拭いながら競うようにして俺の前に進み出た。俺が代書したそれぞれの名前の横に、彼女たちは愛おしそうに、誇らしげに、次々と黒い指印を押し重ねていく。
オーエはその様子を、まるで極上の芸術品でも眺めるかのような、恍惚とした目で見つめていた。
「素晴らしい……。文字の壁すらも逆手に取り、即座にシステムの穴を埋めるか、フジワラ。これなら、文字を読めぬ無数の平民どもすらも、一瞬で我が『市民』の軍勢に組み込めるな。クク、ハハハハ!」
「よし、これで土台はできたな」
俺が全員の名前と黒い指印が並んだノートをパタンと閉じると、オーエは満足げに頷き、洞窟の奥――さらに険しく、暗く続く、ノルズ山脈の深淵を見据えた。
「ああ。心の首輪を外した彼女たちの弓は、もはや帝国の騎士ごときでは防げん。……行くぞ、フジワラ、セクレタリア。次は、帝国の圧倒的な武力を支える鉄の奴隷――文字は読めずとも、世界一頑固な『ドワーフ』どもを、このノートに引きずり込んでやるのだ!」
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