プロローグ:怒号と炎の夜
「殺せ! 殺せ! 亜人の化け物を辺境から追い出せ!」
「人間の土地をこれ以上汚させるな! 薄汚い家畜どもめ!」
すさまじい怒号と、松明の赤い炎が、夜の帳を不気味に焼き焦がしていた。
ノルズ山脈の麓にある開拓村。その広場を埋め尽くすのは、鍬や鋤を手にした数十人もの「人間の農民」たちだ。彼らの目は怒りと恐怖、そして歪んだ特権意識で完全に血走っていた。
その民衆をさらに背後から扇動するように、馬の上から拡声の魔導具に向けて叫んでいるのは、真鍮の鎧を纏った帝国の役人だ。
「ナァノ朝の旧王族が亜人と結託し、この地を脅かそうとしている! 皇帝イル・ソンガ様に従う忠良なる臣民よ、今こそ立ち上がり、帝国の秩序を乱す反逆者どもを駆逐せよ!」
一触即発。誰かが石を一つ投げるだけで、この広場は瞬く間に凄惨な血の海に変わるだろう。
怯え、尖った耳を震わせるエルフの少女セクレタリア。彼女を庇うようにして、俺――フジワラは、人間の暴徒たちのちょうど真ん中、怒号が飛び交う最前線に両手を広げて立ちはだかっていた。背中には、滝のような冷や汗が流れ、シャツが肌にべっとりと張り付いている。
俺がこの世界に転移してきたときに授かった【魔獣テイム】の能力は、野生の魔獣や亜人となら言葉を超えて心を通わせることができる。だが――この能力は、人間には『一切効かない』。
どれだけ必死に言葉を尽くそうと、目の前で敵意を剥き出しにしている暴徒たちにとっては、俺の叫びなどただの雑音、あるいは「亜人の味方をする裏切り者の戯言」に過ぎなかった。
「どけ、こわっぱが! そんなに亜人が愛おしいなら、まとめてその首を撥ねてやる!」
最前線にいた大柄な農民が、ギラリと鈍い光を放つ大きな薪割り斧を振り上げた。
暴力の波が俺を飲み込もうとした、まさにその瞬間だった。
「――クク。アハハハハハ!」
松明の赤い炎が揺れる広場に、オーエの、あの脳髄を直接引っ掻くような「狂気の笑い」が響き渡った。
あまりにも場違いで不気味なその大爆笑に、農民たち、そして役人の動きまでもが、まるで時間が止まったかのようにピタリと凍りつく。
オーエは笑い声をピタリと止めると、頭深く被っていたフードを払いのけた。夜闇の中で月光を浴びて怪しく輝く白銀の髪、そして、形成の狂いもない美しい青色の瞳が露わに入る。
その、見た者すべてを本能的に平伏させるような圧倒的な気品。ナァノ朝第三王子――オーエ。
「お、王族……!? いや、半年前のクーデターで皆殺しにされたはずの、王国の生き残りか、あれは!」
帝国の役人が怯えたように声を裏返らせる。農民たちの間に、動揺が雪崩のように広がっていくのが分かった。いくら帝国が支配を広げたとはいえ、数百年にわたりこの地を治めてきた王族の血筋が持つ重みは、未だ民の魂に刻まれているのだ。
実際のところ、オーエは家事能力も運動神経もマイナス一万点なので、戦う力など爪の先ほどもない。今だって、俺の後ろに隠れながら俺の袖を裏で必死にギュッと掴み、指を震わせている。
だが、彼がひとたび背筋を伸ばして口を開き、その狂気的なまでのカリスマを放ち始めた瞬間、彼は間違いなく世界の中心になるのだ。
「農民どもよ、よく聞け。貴様らは、エルフが自分たちの富を奪いに来たと怯え、憎んでいるな? だが、それは決定的な間違いだ。貴様らの富を、未来を、尊厳を奪っているのは、あの帝都の玉座でふんぞり返るイル・ソンガただ一人だ!」
オーエは青い瞳を冷酷に細め、せせら笑った。
「私はすでに、王子としての身分など捨て去っている。いいか、人間だから上なのではない、エルフだから下なのでもない! 私たちは等しく、己の足で立つ『市民』だ! 支配者に首輪を繋がれるだけの、家畜の時代は今夜、ここで終わりだ!!」
地鳴りのようなどよめきが、広場を包み込んだ。
農民たちの手から、ぽろぽろと鍬や斧が落ちていく。それは、圧倒的な武力による屈服ではなかった。この異世界の誰も提唱しなかった、脳髄を灼く思想の光――『民主主義』という名の感染症が、大衆の心を激しく揺さぶり、覚醒させた瞬間だった。
……これが、のちに歴史書に『ノルズの夜明け』として刻まれることになる、世界で最初の市民蜂起の光景。
そして物語は、ここからほんの数週間前。
俺たちが奴隷収容所を鮮やかに(実際はウルフの群れにビビり散らし、王子様のバテた身体を引きずりながら)脱出した、あの夜の直後へと遡る――。
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