甘い麻薬と、ほどけない指先
第九話の物語をさらに深く、そして熱量を込めて拡充しました。阿爾の執着心と、遼の揺れ動く心理描写を強化しています。
第九話:甘い麻薬と、ほどけない指先
浴室から立ち上る白い湯気が、密室の温度をさらに引き上げ、私たちの視界を微かに、けれど確実に遮っていく。
ずぶ濡れのシャツを脱ぎ捨てた阿爾の体は、細いけれどもしっかりとした少年の骨格をしていた。磁器のように白く、滑らかなその肌に触れるたび、私の指先には彼が「人間」として今この瞬間を生きているという、逃れようのない熱が伝わってくる。
「……ねえ、主人。もっと強く触って。そうしないと、僕が僕じゃなくなってしまいそうなんだ」
阿爾は私の手を離そうとせず、むしろ強引に自分の喉元へと導いた。
指先に伝わるのは、トク、トクと、生々しく脈打つ鼓動。昨日までの彼には決して存在しなかった、命の証。そのリズムは、私の心臓の音と同調するように次第に速まっていく。
「……阿爾、もう十分よ。ちゃんと温まったなら、早く上がって着替えなさい」
私は動揺を隠すように、できるだけ冷たい声を出そうとした。けれど、湿り気を帯びた空気のせいで、声はわずかに震え、意図に反して甘い響きを帯びてしまう。
彼を見つめる自分の瞳が、いつの間にか熱を帯び、彼を「男の子」として意識し始めていることに気づかないふりをする。けれど、阿爾はそんな私の隠しきれない心の揺らぎを、誰よりも敏感に、そして残酷なほど正確に感じ取っていた。
「嘘だ。主人の瞳、さっきから揺れてる。……僕のこと、怖い? それとも、可愛いって思ってる?」
阿爾は濡れた銀髪を無造作にかき上げ、至近距離で私を覗き込んだ。翡翠色の瞳が、獲物を捕らえた獣のように、あるいは全てを見透かす神様のように妖しく光る。彼は一歩、また一歩とタイルを鳴らして距離を詰め、私を浴室の湿った壁際へと追い詰めた。
「……僕は、主人のものだよ。あなたが僕を買い取ったあの日から、僕の魂も、この体も、全部あなたの所有物だ。だから、主人が僕をどう扱おうと、文句なんて言わない。……むしろ、もっと無茶苦茶にしてほしいんだ。壊れるくらいの力で、僕を抱きしめてよ」
その言葉は、純粋な献身のようでいて、私を一生抜け出せない共依存の泥沼に引きずり込むための、甘い甘い罠だった。
私は彼を救うために人間へと変えたつもりだったのに、気づけば私の方が、阿爾という毒に侵され、彼なしではいられなくなっている。
「……勝手なこと言わないで。あなたはもう、自由なのよ。誰の所有物でもないわ」
「自由なんていらない。そんな不確かなものより、僕を縛り付けて。主人の言葉で、主人の熱で……僕をこの世界に繋ぎ止めていて。そうしないと、僕はまた孤独な飾棚に戻ってしまう。それだけは、耐えられないんだ」
彼は私の肩に顔を埋め、深く、深く呼吸を繰り返した。
雨の匂いと、石鹸の香りと、そして彼自身の体温。
それらが混ざり合って、私の理性は音を立てて、もろくも崩れていく。
繋いだままの指先は、もうどちらがどちらのものか分からないほどに、強く、深く絡み合っていた。
この熱から逃れる術を、私はもう、持っていなかった。




