雨の滴と、理性の境界線
買い物から戻る途中、空は耐えきれなくなったように激しい雨を降らせた。
私たちは、逃げ込むようにマンションの部屋へ飛び込んだ。玄関の扉を閉めた瞬間、外の喧騒が遠のき、代わりに重苦しい雨音だけが室内に響き渡る。
「……冷たい。主人、これが『雨』っていうものなの?」
阿爾は玄関先で立ち尽くし、銀髪から滴る雫を不思議そうに見つめている。
新しく買ったばかりの真っ白なシャツが、雨を吸って彼の肌に張り付いていた。薄い布越しに、少年のしなやかでいて、どこか脆さを感じさせる肢体が露骨に浮き彫りになっている。昨日まで飾棚で静止していた無機質な美しさが、水分と熱を得たことで、ひどく扇情的で生々しいものに変貌していた。
「そうよ。……立ち止まってないで、早くお風呂に入りなさい。風邪を引いたら大変だわ。人間は、濡れたままだと熱を出して壊れてしまうこともあるのよ」
「……壊れる? 僕が? そんなの嫌だ。主人のそばにいられなくなるなんて」
彼は怯えたように目を細めた。その瞳には、人間になった喜びよりも、いつか訪れるかもしれない「終わり」への恐怖が色濃く映っている。
「だから、早く温まりなさい。教えるから、まずは脱衣所で服を脱いで。私は新しい着替えを持ってくるから」
私は逃げるように脱衣所を後にした。自分の頬が火照っているのが分かる。心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響き、彼を「ただの人形」だと思い込もうとする理性が、一歩ずつ崩れていく。
しばらくして着替えを持って戻ると、浴室の扉の向こうから水音と、どこか不安げな阿爾の声が聞こえてきた。
「……主人、いないの? また、あの暗い箱の中に閉じ込められたみたいだ。冷たくて、音が何も聞こえない……主人の声が聞きたいよ」
「いるわよ、扉のすぐ外に。……ちゃんと洗えてる? シャンプーは目に染みるから気をつけてね」
「分からない。……ねえ、入ってきてよ。主人の手が触れていないと、僕は自分が生きているのか分からなくなるんだ。また石に戻ってしまいそうで怖いんだ」
その声は、明確に震えていた。
私は意を決して、浴室の扉を少しだけ開けた。立ち込める白い湯気の中に、透き通るような白い背中が浮かび上がる。阿爾は振り返り、濡れて顔に張り付いた髪の間から、潤んだ翡翠色の瞳を私に向けた。
「……やっと来た。ねえ、ここを洗って」
彼は私の手首を掴み、自分の胸元――心臓が激しく脈打つその場所へと導いた。
濡れた肌の熱さが、指先を通して直接脳裏に焼き付く。昨日まで触れていた冷たい磁器の感触はどこにもなく、そこには紛れもない「生」の重みがあった。
「阿爾……あなたは、もう人形じゃないの。……自分でできるはずよ。もう私に頼らなくても……」
「嫌だ。自分でできることなんて、何一つ増やしたくない。主人の指先が触れるたび、僕は自分が『生きている』って実感できるんだ。……他の誰の手もいらない。主人の体温だけが、僕を人間にしてくれる」
彼は私の指を絡め取り、そのままゆっくりと自分の首筋に這わせた。
そこには、トク、トクと、狂おしいほど激しく刻まれる鼓動がある。
「ねえ、主人。もっと僕を……無茶苦茶に触って。僕があなたの『所有物』だって、この体に刻み込んでほしいんだ。……痛みでもいい、熱さでもいい。主人の証が、僕には必要なんだ」
その言葉は、純粋な依存であり、同時に逃げ場のない残酷な誘惑だった。
湯気の向こう側で、私たちの「境界線」が、降り続く雨音と共に溶けていく。
私は彼を救っているのか、それとも、底なしの沼へ共に沈んでいるのか。




