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初めての外出、危うい独占欲

朝食を終えた後のリビングには、どこか落ち着かない空気が漂っていた。

 私のパジャマを着たまま、阿爾アルはソファに深く腰掛け、じっと自分の手を見つめている。その手は、昨日までは冷たく硬い磁器だったはずなのに、今は窓から差し込む陽光を吸い込んで、柔らかそうな温かみを帯びている。血が通い、心臓が脈打つ。その当たり前の事実が、彼にとってはまだ信じられない奇跡のように見えるのかもしれない。


彼は時折、自分の指先をもう片方の手で確かめるように触れている。その仕草があまりにも無垢で、けれどどこか生々しくて、私は視線を逸らさずにはいられなかった。


「ねえ、阿爾。いつまでも私のパジャマでいるわけにはいかないわ。これから服を買いに行きましょう」


私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。銀糸のような髪がさらりと流れ、翡翠色の瞳が私を捉える。その美しさは、人間になった今でも、どこかこの世のものとは思えない神秘性を纏っていた。


「……服? これじゃダメなのか? 主人の匂いがして、一番落ち着くのに。僕にとっては、どんな高価なシルクよりも、これが一番心地いいんだ」


彼は不滿げに首を傾げた。オーバーサイズのパジャマから覗く鎖骨や、細いけれどもしっかりとした肩のライン。彼にとっては単なる「布」かもしれないが、私にとっては昨日まで自分が着ていた服を、この「男の子」が着ているという事実だけで、どうしようもなく心臓に悪い。人形だった頃の彼には感じなかった「異性」としての圧迫感が、静かに部屋を支配していく。


「ダメよ。それは私のものだし、男の子は男の子の服を着るの。それに、さっきの友人の時のように怪しまれたら困るでしょう? 職質しょくしつなんてされたら、説明のしようがないわ」


「ふーん。主人がそう言うなら、従うよ。……でも、一つだけ条件がある」


阿爾は立ち上がり、音もなく私の目の前まで歩み寄ってきた。彼が見下ろしてくるその視線には、人形だった頃の静謐さはなく、私を射抜くような強い熱が宿っている。


「外にいる間、ずっと僕の手を握っていて。そうしないと、僕はまた『モノ』に戻ってしまいそうなんだ。この温もりを手放した瞬間、僕の体はまた冷たい石に変わってしまう……そんな気がするんだ」


それが彼なりの不安なのか、あるいは計算された甘えなのかは分からない。けれど、真っ直ぐに見つめられると、私は拒絶することができなかった。結局、私は彼の熱い指先に自分の指を絡め、外の世界へと踏み出すことになった。


街に出ると、案の定、周囲の空気は一変した。

 道ゆく人々が次々と足を止め、阿爾の姿を二度見、三度見していく。若い女性だけでなく、年配の層までもが、その「究極の造形」に目を奪われているのが分かった。まるでショーケースの中に飾られた最高級の美術品が、突然街を歩き出したかのような騒ぎだ。


「……主人の手、さっきより少し熱くなった。どうして? 脈拍も、さっきより速い気がする」


阿爾は周囲の視線など全く気にする様子もなく、ただ繋いだ手の感触だけを確認するように、指の隙間に自分の指を深く滑り込ませてくる。いわゆる、恋人繋ぎだ。


「それは……みんながこっちを見てるから、恥ずかしいのよ。そんなにジロジロ見ないでほしいわ……」


「僕以外の奴が、主人を見るのが嫌だ。……全員、壊してしまえばいいのに。主人の瞳に映るのは、僕だけでいい。それ以外の景色は、必要ないだろう?」


さらりと恐ろしいことを呟く彼の声は、ひどく無機質で、それでいて純粋だった。冗談を言っているようには聞こえない。阿爾の独占欲は、人間としての理性よりも先に、彼が歩んできた『アンティーク』としての本能に基づいているのかもしれない。持ち主を守り、持ち主だけに愛されることを存在理由としてきた記憶が、彼の「愛」を歪な形に形成しているのだ。


「そんなこと言わないで。……ほら、あのお店に入りましょう」


私は逃げ込むように、一軒のブティックに入った。

 店員も阿爾を一目見るなり、頬を染めて近づいてくる。彼女が阿爾のサイズを測ろうとメジャーを伸ばした瞬間、阿爾はあからさまに嫌悪感を剥き出しにして、私の背後に隠れた。


「主人以外の奴に触れられるのは、虫唾が走る。近寄るな。その汚い手を僕に向けないでくれ」


氷のような冷徹な言葉に、店員は凍りついた。私は慌ててフォローを入れながら、適当なシャツを何枚か選んで試着室へと彼を押し込んだ。


試着室のカーテンを閉めようとしたその時、阿爾は私の手首を強く掴んだ。その力は驚くほど強く、彼がもう「壊れやすい人形」ではないことを思い知らされる。


「……どこに行くんだ。僕をここに閉じ込めて、逃げるつもりか? 僕を捨てて、あの男のところへ行くのか?」


「行かないわよ。ここで待ってるから、早く着替えて。……ほら、手を離して」


「離さない。……主人が視界から消えると、僕の心臓はまた、あの冷たい磁器に戻りそうになるんだ。暗くて、狭い、あの箱の中にいた頃の僕に……。お願いだ、遼。僕を一人にしないで」


本名で呼ばれ、私は言葉を失った。カーテンの隙間から覗く彼の瞳は、獲物を狙う獣のような鋭さと、親を求める子供のような脆さが同居していた。


「分かったわ。……カーテンの外で、ずっと手を繋いでるから。絶対どこにも行かないわよ」


私は溜息をつきながらも、カーテンの下から差し出された彼の白く細い指を握り返した。

 試着室の中から、バサリという衣擦れの音が聞こえてくる。カーテン越しに伝わる微かな体温と、繋がれた手の感触。彼は服を着替えるという単純な行為さえ、私との『境界線』を埋めるための儀式に利用している。


やがてカーテンが開き、そこには真っ白なシャツを纏った阿爾が立っていた。

 私のパジャマ姿の時よりも、ずっと「男の子」としての存在感が増している。けれど、その瞳に宿る執着だけは、何も変わっていなかった。


「……似合う? 主人の好きな色を選んだつもりだけど」


「ええ、すごく似合ってるわ。……でも、これからはもう少し他人に優しくしてね」


「主人の言うことなら、努力はしてみる。……でも、期待はしないで。僕の優しさは、全部主人に使い果たしてしまったから」


彼は私の手を引いて、レジへと向かった。

 私たちはまだ、始まったばかりだ。

 彼が本当の意味で「人間」になるまで。

 そして、私の心の中にある境界線が、彼によって完全に踏み越えられるまで。

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