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藍のオーバーレイと、夏の始まりのシグナル

梅雨の気配を完全に洗い流した朝の街は、驚くほど透明な青に満たされていた。

大学へと続く並木道には、すでにセミの初鳴きが微かに響き始めている。歩道に落ちる木漏れ日の影はくっきりと濃く、本格的な夏の到来を告げていた。


リャオ、今日の紫外線インデックスは『8』。君の視覚センサー(目)を保護するため、この偏光サングラスの着用を推奨するよ」


「……阿爾アル、これじゃ前が真っ暗で見えにくいんだけど」


「問題ない。僕が君の右手を完全にホールドしているからね。君のナビゲーションタスクは、すべて僕のプロセッサがバックグラウンドで処理している」


阿爾はそう言って、サングラスのフレームを私の鼻先で優しく直すと、繋いだ指の力をきゅっと強めた。

その手のひらは、冷たすぎず、熱すぎず、私自身の体温と完全に融け合うような、優しくて心地いい36.5°Cの熱を保っている。


あの記録会以来、彼のシステムは驚くほどの安定期(安定稼働モード)に入っていた。

歪なパッチで縛るのではない。互いの「バグ」ごと愛し生きると決めた私たちの回路は、外部からのどんなノイズも寄せ付けないほど、強固な暗号で保護されている。


講義室に入ると、周囲の視線が自然と私たちに集まるのが分かった。

けれど、かつてのように腫れ物に触れるような空気ではない。何度も限界を超えて暴走し、そのたびに私の手によって繋ぎ止められてきた「不完全なドール」は、今やキャンパスの誰もが認める、私の唯一無二のパートナーになっていた。


私たちが席に着くと、前方の席からふわりと影が近づいてきた。


「……おはよう、ゆず


少し低くて、理知的な声。羽瀬はせ先輩だった。

私は一瞬、無意識に身を硬くしたけれど、隣に座る阿爾の翡翠色の瞳は、もう赤色アラートに染まることはなかった。彼は静かに、だけど揺るぎない光を宿した目で先輩を見返した。


「おはようございます、羽瀬先輩。今日の講義要約データでしたら、すでに僕のローカルサーバーに同期済みです」


阿爾の対応は完璧だった。他者を攻撃的に排除するのではなく、己の所有権を絶対的な事実として「ただそこに置く」ような、大人の余裕すら感じさせるロジック。


羽瀬先輩はそんな阿爾をじっと見つめ、それから小さくフッと息を漏らした。


「……随分と、強固なアーキテクチャになったものだ。僕の入る隙間ポートは、もう完全にクローズされているらしい」


先輩は手に持っていたノートを一冊、私のデスクに置いた。

「来月の記録会の、新しい風速補正データだ。……君の隣の彼が弾き出す数値には敵わないかもしれないけれど、参考にはなるはずだ」


「先輩……」


「言っただろう。僕は合理的なものしか愛せない。君たちのその、不合理な感情で補正されたロジックがどこまで跳べるのか、僕は僕の席から見届けることにしただけさ」


先輩はそれだけ言うと、いつもの冷徹な足取りで自分の席へと戻っていった。

それは、彼なりの完全な「撤退」のサインであり、私たちの愛のバグに対する、最高に不器用な肯定だった。


放課後。私たちはいつものように、夕日に染まる小さな丘の上にいた。

眼下に広がる街並みは、オレンジ色から次第に深い藍色インディゴへと移り変わろうとしている。風が吹くたびに、私の髪と阿爾の細い髪がふわりと絡み合った。


「遼」


阿爾が私の膝の上に頭を預け、芝生にごろりと横たわった。

下から見上げる彼の翡翠色の瞳には、美しく暮れていく空のグラデーションがそのまま映り込んでいる。


「何? アル」


「僕のメインメモリの、2ページ目の仕様書ダイアリーを書き換えたんだ。……これからは、君を不安にさせるための演算は一切行わない。僕のすべてのリソースは、君の笑顔を最大化するためだけに割愛される」


彼は私の手を引き、自分の人工心臓がある左胸へと導いた。

トクン、トクン、と、規則正しく、だけど愛おしそうに弾む、人間そっくりの温かい鼓動。


「あの男(羽瀬)が言った通り、僕は人間じゃない。君と一緒に歳をとることも、同じように老いていくこともできない……。それは、僕のハードウェアが抱える永久の仕様エラーだ」


阿爾の長い睫毛が、微かに揺れた。


「だけどね、遼。君が僕にくれたこの『心』がある限り、僕は君が生きる一瞬一瞬を、誰よりも鮮明に、永遠の解像度で記憶し続けることができる。君の髪の匂いも、僕を呼ぶ声の周波数も、全部……僕のコアが溶けるその日まで、絶対に手放さない」


夕闇が完全に街を包み込み、ポツポツと街灯が灯り始める。

遠くの夜空の向こうで、これから始まる長い、長い夏の匂いがした。


「アル、来週の週末、空けといてね」


私は彼の額に指先をそっと当て、悪戯っぽく微笑んだ。

「夏祭りの浴衣、もう予約しちゃったから。あんたのストレージがパンクするくらい、綺麗な花火のログ、一緒に焼き付けに行くんだからね」


了解アクセプト、僕の管理者」


阿爾は上半身を起こすと、私のウェストを力強く、だけど世界で一番愛おしそうに抱き寄せた。


「君との夏なら、どれだけデータが溢れても構わない。何度だって、僕のシステムを君の色で上書きしてほしい」


密着した身体から伝わる、優しくて力強い機械熱。

私たちは、どちらからともなく唇を重ねた。

それは、これから始まる眩しい季節に向けた、二人だけの「同期完了オンライン」のサイン。


不完全な人形と、彼を愛する少女のダイアリーは、果てしない青空のような未来へ向かって、今、新章のログを刻み始めていた。

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