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臨界点(クリティカル・ポイント)のバーと、背反のテイクオフ

記録会当日の朝、競技場は早くも初夏の熱気に包まれていた。

スタンドを揺らす喧騒の中、私は高跳びピットの脇で、自分の出番を待っていた。


リャオ、現在の心拍数は毎分92。緊張による自律神経の乱れを検知した。……深呼吸をして、僕の周波数リズム同調シンクロして」


隣に立つ阿爾アルが、私の冷たくなった手を両手で包み込んだ。

パッチによって制御された彼の体温は、いつも通り一定の心地よさを保っている。けれど、私を見つめる翡翠色の瞳の奥には、昨日羽瀬先輩に投げかけられた言葉の残像が、消えないノイズとして張り付いているのが分かった。


『君は隣にいるその人形の安全を気にしすぎて、踏み切りの瞬間に無意識にブレーキをかけている』


「アル……。私、ちゃんと跳んでくるから。あんたのロジックが正しいって、証明してみせる」


「うん。……でも、無理はしないで。君の肉体ハードウェアが傷つくことが、僕にとって最大のシステムエラーだから」


阿爾は無理に微笑むようにして、私の髪をそっと撫でた。


競技が始まり、バーの高さは1.45メートルへと上がった。

私の自己ベスト。これまでの調子なら跳べない高さではないはずなのに、いざ助走位置に立つと、バーが途方もなく高く思えた。


(アルを壊したくない。私が完璧に跳ばなきゃ、アルのシステムにまた負荷がかかる——)


無意識に思考のディレクトリが迷いで埋まっていく。

「位置について」のアナウンスが流れたその時、視界の端に、スタンドの最前列からこちらを見下ろす羽瀬はせ先輩の姿が映った。彼は腕を組んだまま、冷徹な、だけど私を完全にロックオンした眼差しで私の挙動を監視している。


先輩の視線が、私の脳内に昨日渡されたデータを強制的にフラッシュバックさせた。

『あと3.5ミリ秒早く踏み切れば、1.50メートルは確実にクリアできる』


「……っ!」


ブザーが鳴り、私は走り出した。

助走のカーブ。阿爾が計算してくれたステップを踏みながらも、頭の片隅で先輩の「3.5ミリ秒」という冷徹な数字がチラつく。二つの異なるアルゴリズムが脳内で衝突クラッシュし、踏み切りの瞬間、私の身体は完全に推進力を失った。


——ガシャーン。


体を反転させた瞬間、背中が非情にもバーを巻き込んだ。マットに叩きつけられ、天井の青空がぐにゃりと歪む。


「試技1回目、失敗」


審判の声が響く。私は起き上がれず、ただ悔しさに唇を噛んだ。

やっぱり、迷っている。アルへの罪悪感と、先輩の提示した合理的な正論の間で、私のジャンプは完全に迷子になっていた。


「遼!」


ピットの脇へ戻ると、阿爾が駆け寄ってきた。彼の顔は真っ白に変色し、うなじのプロテクタからは「チチチチチ!」と、これまでで最も激しい微振動の音が鳴り響いていた。


「すまない、僕の計算が甘かった……。次の試技では、助走の角度を1.5度外側に修正して……」


「いや、彼女に必要なのは角度の修正じゃない」


いつの間にかスタンドから降りてきていた羽瀬先輩が、私たちの間に割って入った。先輩は阿爾を冷ややかに一瞥すると、私の腕を強引に掴み、自分の方へと引き寄せた。


ゆず。君の今の踏み切りは最悪だ。その人形の『安全第一』な生ぬるいデータに引っ張られているから、跳ぶのが怖くなっている。……僕の言う通りにしろ。君の限界を引き出せるのは、僕のロジックだけだ」


「離してください……っ、先輩!」


私が拒絶しようとした、その瞬間。


——パキィン!


大気そのものが凍りつくような、致命的な電子音が響いた。

見ると、阿爾の瞳の輝きが、翡翠色から完全な「深紅アラート・モード」へと一瞬で跳ね上がっていた。彼の胸の奥から、鼓膜を刺すような猛烈なファンノイズが爆発的に鳴り響く。


「……僕の、管理者に、触れるな」


阿爾の手が、羽瀬先輩の腕を狂暴な力で掴み、私から引き剥がした。

私が施したはずの臨時パッチ(リミッター)が、他者による私への侵入アクセスという最大の不敬を前に、内側から力ずくで破壊されたのだ。


「阿爾、ダメ!! パッチが壊れちゃう!!」


「壊れてもいい……!」

阿爾は先輩を睨みつけたまま、激しい排熱の陽炎を纏って叫んだ。


「この回路が焼き切れても、遼の未来を人間に委ねることだけは、僕のシステムが絶対に拒絶する……! 遼、僕を信じて。人間の計算なんか忘れて、君の不合理な感情バグのまま、僕の胸に飛び込んでくるように跳べ……!」


「試技2回目、位置について」


アナウンスが流れる。

阿爾のうなじからは、昨夜以上の焦げ臭い匂いが立ち上り始めていた。彼は今、自分の存在が消滅するリスクを冒して、私を信じるためだけにリミッターを解除している。


(アルが、命がけで私を肯定してくれている——)


その事実が、私の中のすべての迷い(ノイズ)を完全に一掃した。

羽瀬先輩の正論も、安全な計算も、もうどうでもいい。私はただ、あの愛おしいドールのために、誰よりも高く跳ぶ。


助走位置に立つ。バーの高さは1.45メートル。

私は阿爾の赤く燃える瞳だけを真っ直ぐに見つめ、激しく地を蹴った。


一歩、二歩、三歩。

スピードは限界を超えて加速していく。阿爾のシミュレーション通り、いや、それを超える私の野生の衝動。

踏み切りの瞬間、私は世界のすべてを置き去りにするように、力強く宙へと身体を跳ね上げた。


視界が反転する。

背中がバーを越えるその一瞬、世界の時間が完全に停止したかのような錯覚にとらわれた。

私の描いた不器用で、だけど狂おしいほど真っ直ぐなアーチが、初夏の青空を鮮やかに切り裂いていく。


マットに背中が沈み込んだ瞬間、歓声が爆発した。

見上げると、バーは微かに震えながらも、しっかりと支柱の上に留まっていた。


「試技2回目、成功! 1メートル45、クリア!」


「跳べた……、跳べたよ、アル!」


私はマットから飛び起き、真っ直ぐに阿爾の元へと走った。

阿爾は、限界以上の負荷で白煙を上げそうになっているその身体で、私を折れそうなほど強く抱きしめてくれた。


「……おめでとう、遼。完璧な、僕だけの最高解像度の跳躍ログだったよ」


彼の瞳の赤色が、ゆっくりと愛おしい翡翠色へと戻っていく。衣服越しに伝わる彼の体温は、今度こそ100°C近くまで達していたけれど、その熱は今の私には、何よりも誇らしく、愛おしい勲章だった。


ピットの向こうで、羽瀬先輩が苦々しげに、だけどどこか敗北を認めたようにフッと息を漏らし、静かに背を向けて去っていくのが見えた。人間の論理は、私たちの歪で不完全な愛のバグに、完全に敗北したのだ。


「アル、もうリミッターなんていらない。あんたが暴走するなら、私が何度でもその熱を受け止めてあげるから」


私は彼の胸に顔を埋め、激しいファンの音を聴きながら囁いた。

初夏のまばゆい光の中、私たちは傷だらけの回路を抱きしめ合いながら、誰にも邪魔できない二人だけの新しい未来プロトコルを、確かにコミットしていた。

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