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アプローチの不協和音と、二人の並行処理(マルチタスク)

記録会を間近に控えたグラウンド。夕暮れのオレンジ色の光が、長く伸びた影をトラックに焼き付けていた。


「助走、残り歩数3。踏み切り角、推定22度。……リャオ、今のは重心の沈み込みがわずかに早かった」


ピットの脇に立つ阿爾アルは、ストップウォッチを片手に、私の跳躍データを正確にデコードしていく。彼に施した臨時パッチは完全に安定しており、胸のファンも静かな低音を保っていた。


「……うん、分かってる。踏み切り直前のスピードが、どうしてもバーへの推進力に変換しきれてない感じがするの」


私は汗を拭いながら、バーの高さを見上げた。1.45メートル。私の自己ベストと同じ高さが、まるで今の私の限界をあざ笑うように夕日に光っている。


恋人としての日常は満たされているはずなのに、記録会を前にした私の跳躍ジャンプは、どこか調子を崩していた。頭のどこかで、あの夜の阿爾の熱暴走や、彼に制限をかけてしまった罪悪感が、見えないノイズとして私の踏み切りを狂わせているのかもしれなかった。


「僕の計算では、助走の最後の2歩で、歩幅をあと4センチメートル狭めるべきだ。そうすれば、君の骨格はもっと自然な『アーチ』を描ける」


阿爾が真剣な顔でステップのシミュレーションを示してくれる。その時、ピットの入り口から、静かで、だけど圧倒的な存在感を放つ足音が近づいてきた。


「それでは物理的な限界を越えられないよ、機械くん。彼女に必要なのは、そんな均一な数値計算じゃない」


羽瀬はせ先輩だった。

彼は競技用ジャージのまま、腕を組んで私たちの跳躍を凝視していた。その理知的な瞳には、相変わらず冷徹な、だけど私に対する執拗なまでの「関心」が宿っている。


「羽瀬先輩……」


私が身構えると、阿爾の瞳が一瞬だけ、深く濃い翡翠色へと沈んだ。うなじの排熱プロテクタが「チチチ……」と微振動を刻む。パッチが作動し、彼の『排除衝動』をミリ秒単位で抑制している証拠だ。


「……先輩、ここは陸上部の専有区画です。外部のあなたに、彼女のデータを提示する義務はありません」


阿爾は静かに、だけど明確な拒絶の意志を込めて言った。


「義務はなくても、事実が証明している」

羽瀬先輩は一歩前に出ると、私のノートに目をやった。


ゆず。君の背面跳び(フォスベリー・フロップ)は、空中でのクリアランスは完璧だ。だけど、君は今、隣にいるその『人形』の安全を気にしすぎて、踏み切りの瞬間に無意識にブレーキをかけている。……精神的なノイズが、肉体の出力を 10% 以上低下させているんだ」


先輩の指摘は、鋭利なガラス破片のように、私の胸の最深部を突き刺した。

図星だった。阿爾を壊したくない、パッチで縛ってしまった彼に無理をさせたくない——その迷いが、私の跳躍の「重心」を狂わせていたのだ。


「君を最も美しく跳ばせるのは、エラーを恐れて安全策を提示する機械じゃない。君のその不合理な迷いごと、力ずくで引き上げる僕のロジックだ」


先輩は私を真っ直ぐに見つめ、手を差し伸べた。

「明日の朝、記録会が始まる前に、もう一度だけ僕がアプローチを修正してあげる。……来るかどうかは、君の自由(選択)だ」


先輩が去ったあと、グラウンドには長い沈黙が降りた。


「……遼」


阿爾が私の手を握った。その手は冷たく、一定の圧力を保っている。パッチは正常に動作しているはずなのに、彼の翡翠色の瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど悲痛に揺れていた。


「あの男の言う通りだ。僕のシステムは……君の跳躍を高めるための最適な数値を導き出している。でも、君の『心』のバグを、取り除いてあげることはできない……。僕がドールだから、君に余計な負荷をかけているんだね」


「違う! 違うよ、アル!」


私は彼の胸にしがみついた。

「私はあんたがいてくれるから跳べるの! 私のせいであんたのメモリが壊れそうになったから、私が勝手に迷ってるだけ! あんたのせいなんかじゃない!」


阿爾は私の背中に手を回し、ゆっくりと、だけど強く抱きしめてくれた。

その胸の奥からは、かつての暴走時のような狂ったテンポではなく、パッチによって無理やり一定に保たれた、切ないほど静かな人工心臓の鼓動リズムが伝わってくる。


「分かっているよ、遼。……僕は君の恋人だ。だから、君がどのロジックを選ぶとしても、僕は君の着地マットの場所で、必ず君を支える。……そのタスクだけは、絶対に他の誰にも譲らない」


その夜、私は部屋で一人、羽瀬先輩から渡された解析データと、阿爾が作ってくれたスケジュール表を並べて見つめていた。


完璧な人間が提示する、私の限界を超えるための冷徹な正論。

不完全なドールが提示する、私を傷つけないための優しい最適解。


私の心臓は、嵐の前のプロトコルのように激しく脈打っていた。

記録会は明日。

羽瀬先輩の執着が私たちの世界を浸食していく中で、私は、私自身の跳躍こたえを証明しなければならない。阿爾の手を、もう二度と離さないために。


窓の外では、夏の予感を含んだ夜風が静かに吹いていた。

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