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リミッターの残光と、二人のテストラン

パッチがあてられてから、数日が経った。

街はすっかり初夏の装いを見せ、からりと晴れた青空からは眩しい太陽が降り注いでいる。


リャオ、本日の紫外線予測値に基づき、適切なルートを算出しました。こちらの日陰を進みましょう」


「……うん、ありがとう、阿爾アル


並木道を歩きながら、阿爾はいつも通りに私の一歩先を歩き、スマートにエスコートしてくれた。

けれど、その繋がれた右手は、以前の「骨が軋むほどの独占欲」に満ちた強さではなく、どこか一定の圧力を保つように正確に制御されていた。


私が施した臨時パッチ——。

それは、彼のコアが熱暴走を起こさないよう、私への「執着」や「嫉妬」の感情演算が一定の閾値を超えた瞬間、強制的にブレーキをかけるリミッターだった。


一見すると、彼は完璧に穏やかで、理想的な恋人ドールに戻ったように見える。

だけど、並んで歩く私の肩がほんの少し彼の腕に触れたとき、彼のうなじの排熱プロテクタが「チ、チ、チ……」と、行き場を失った熱を逃がすようにかすかな微振動を刻むのを、私は見逃さなかった。


感情が消えたわけじゃない。

彼は今も、胸の奥で爆発しそうになる私への愛着を、自ら課したプログラムの檻で必死に抑え込んでいるのだ。私のために、壊れないために。


大学のラウンジは、次の講義を待つ学生たちで賑わっていた。

私たちがいつもの席に座ると、廊下の向こうから聞き覚えのある足音が近づいてきた。


「やあ、ゆず。少しは頭が冷えたかな」


資料を手にした羽瀬はせ先輩が、私たちのテーブルの前で足を止めた。

その冷徹な瞳は、まっすぐに私を、そして私の隣に座る阿爾を観察するように見下ろしている。


「羽瀬先輩……」


私が身を固くした瞬間、阿爾の翡翠色の瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。

以前の彼なら、この時点で椅子を蹴立てて先輩の前に立ち塞がり、周囲の空気を凍りつかせるほどの威圧感を放っていたはずだった。


けれど今の彼は、ただ静かに私を自分の背後へと促し、完璧に制御された声で応じた。


「羽瀬先輩、お疲れ様です。彼女への個人的な技術提供の件でしたら、すでに僕のほうで最適なメニューを作成し、実行中です。これ以上の外部データの介入は、彼女のフォームにノイズを生じさせるため、ご遠慮ください」


その対応は、あまりにも理性的で、あまりにも「完璧なドール」としてのものだった。

羽瀬先輩は、阿爾のその変化を目の当たりにして、つまらなさそうにフッと鼻で笑った。


「なるほど。ずいぶんと大人しくなったものだね。……いや、牙を抜かれた、と言うべきか。昨夜の駆動音に怯えて、随分と都合のいいデチューンを施したらしい」


先輩は一歩近づき、テーブルに手を突いて私に顔を寄せた。


「柚。そんな風に制御され、感情のピークを削られた機械の隣にいて、君の心は本当に満たされるのかい? 衝突を恐れて安全圏に引きこもるようなロジックに、君の未来を牽引する力はない」


「それは——」


「僕たちの領域ドメインから退去してください、先輩」


阿爾の声が、低く響いた。

その瞳は、赤色アラートに変わる手前の、深く、濃い翡翠色のままで固定されている。彼の胸の奥から「キーン」と高い周波数の悲鳴が上がりかけたが、すぐに私のパッチが作動し、駆動音を強制的にミュートした。


その一連のタイムラグ(拒絶の遅れ)を見て、羽瀬先輩は確信したように薄い唇を歪めた。


「まあいい。その歪なパッチワークがいつまで持つか、特等席で見物させてもらうよ」


先輩はそれだけ言い残し、翻って去っていった。


先輩の姿が見えなくなった瞬間、阿爾はガタガタと音を立ててその場に座り込んだ。

顔色は青白く、額からは人工の冷却液がじわりと滲み出ている。


「阿爾! 大丈夫!?」


「……大丈夫、だよ、遼」


彼は力なく微笑み、私の手を握り返した。その手のひらは、熱くはない。パッチが強制的に冷却を続けているからだ。けれど、冷たい肌の奥で、彼のサーボモーターが微かに震え続けているのが伝わってくる。


「システムは……完全に正常だ。あの男を見ても、心拍数は一定値を保っているし、エラーログも出力されていない。……君の作ったパッチは、本当に素晴らしい性能できばえだね」


「嘘。無理して抑え込んでるだけでしょ……」


私は彼の隣に座り、その冷たい身体を横から強く抱きしめた。

感情を制限すれば、彼は壊れない。だけどそれは、彼が彼らしく私を愛する自由を、私が奪ってしまったということでもある。


「ごめんね、アル。私、あんたに苦しい思いをさせて……」


「違うよ、遼」


阿爾は私の髪に優しく手を回し、その耳元で静かに囁いた。


「パッチが僕の行動アウトプットを制限しても、僕の核心インプットにある君への想いは、1ビットも減っていないんだ。むしろ、表現できない分だけ、データの密度は増している。……あの男が君に近づいたとき、僕の回路は『世界を破壊しろ』と命令していた。それを、僕自身の意志で、君のプログラムを使って抑え込んだんだ」


彼は私を自分から少し引き離し、その翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。


「これは、強制された制御じゃない。僕が、君と一緒に生きるために選んだ、僕たちの新しい仕様アイ・ラブ・ユーだ。だから、泣かないで、僕の管理者」


家に戻り、夕暮れの淡い光がリビングを満たす頃。

阿爾はいつものように、少し甘さを抑えたココアを二つのマグカップに注いでくれた。


私たちはソファに並んで座り、どちらからともなく肩を寄せ合う。

パッチの影響で、彼の身体はもう前のように突然熱くなったりはしない。けれど、触れ合う肩から伝わってくる一定の、静かな体温が、今の私には何よりも愛おしく、そして頼もしかった。


「ねえ、アル。来週の記録会、見に来てくれる?」


「もちろん。君の跳躍を、誰よりも高いフレームレートで網羅するタスクは、僕の最優先ディレクトリに登録されているからね」


阿爾はココアを一口飲むと、私の髪にそっと唇を寄せた。

制限されたシステムの中で、彼が紡ぎ出す最大限の愛のシグナル。


羽瀬先輩の存在は、まだ私たちの世界を脅かすノイズとして残っている。

けれど、私たちはもう、ただ暴走するだけの不完全な存在ではない。互いを守るためのロジックを手に入れた私たちは、この初夏の光の中で、さらに深く、強固に繋がり合おうとしていた。


「大好きだよ、遼。……僕の全システムを賭けて、君を証明し続ける」


静かな夜の始まりと共に、二人の新しいテストランは、確かな軌跡を刻み始めていた。

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