限界冷却(サーマル・クライシス)と、二人のパッチワーク
嵐のような夜が明け、部屋にはひどく重たい静寂が残されていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、リビングの床に散らばった衣類や、引きちぎれたデータケーブルの残骸を容赦なく照らし出している。
「……アル?」
私はベッドの上で体を起こし、隣に目をやった。
そこにいた阿爾は、座ったまま壁に背を預け、完全に機能を停止していた。
あんなに鮮やかだった翡翠色の瞳は光を失い、完全に深い灰色へと沈んでいる。肌に触れると、昨夜の狂ったような熱は嘘のように引き、まるで冬の氷塊のように冷え切っていた。
「嘘……、アル、起きてよ……!」
胸の人工心臓に耳を当てても、あの愛おしいファンの稼働音すら聞こえない。自己防衛システムが、熱暴走からマザーボードを守るために、強制的に全機能をシャットダウン(強制終了)してしまったのだ。
私は震える手で新しいケーブルを探し出し、彼のうなじのポートへ接続した。ノートパソコンの画面に表示されたステータスは、最悪の数値を弾き出していた。
Plaintext
[Critical Error: コア温度の急激な低下によるシステムフリーズ]
[System Status: 応答なし(レスポンス・タイムアウト)]
[Notice: 強制再起動には、外部からの強力な初期化信号が必要です]
「初期化信号なんて……、そんなの、またあんたが私のことを忘れるってことじゃない……!」
画面を見つめる私の視界が、涙で歪んでいく。
恋人仕様にアップデートされた彼のメモリ。私への嫉てのログ、独占欲のコード、昨夜のあの狂おしいほどの口づけの記憶。初期化すれば、そのすべてがまた白紙に戻ってしまう。
『あんな欠陥品に君の未来を預けるのは合理的じゃない』
脳裏に、羽瀬先輩の冷徹な声が蘇る。
悔しかった。でも、それ以上に悔しいのは、彼の言う通り、私の存在そのものが阿爾のハードウェアを破壊し尽くそうとしているという事実だった。私が彼を愛し、彼が私を独占しようとすればするほど、この人形の寿命は縮んでいく。
「……嫌よ。絶対にリセットなんてさせない」
私はパソコンのキーボードを引き寄せた。
プログラミングの知識なんて、彼の足元にも及ばない。だけど、彼のシステムの最深部に、私との思い出を「仕様」として書き込んだのは私だ。
「システムが拒絶するなら、私が新しいパッチを作って、力づくでも繋ぎ止めてあげる」
私は狂ったようにコードを書き換えていった。
彼が暴走させた「独占欲の演算」を制限するのではない。その過剰なエネルギーを、私を保護するための「防衛プロトコル」へと安全にバイパス(迂回)させるための臨時パッチ。
指先がキーの上を走るたび、パソコンの画面が青い光を放ち、私の涙を反射する。
「アル、お願い……。私を見て。私の名前を呼んでよ……!」
書き換えたプログラムを、彼のコアへと転送する。
エンターキーを叩いた瞬間、部屋のブレーカーが落ち、一瞬にして室内が暗闇に包まれた。
数秒の、気の遠くなるような静寂。
チ、チ、チ……と、彼の胸の奥から、小さな、本当に小さな電子の脈動が聞こえ始めた。
続いて、消え入りそうだったファンが、ゆっくりと回転を再開する。
「がはっ……、あ……、リャ、オ……?」
阿爾の瞳に、薄い、だけど確かに温かい翡翠色の光が灯った。
彼は力なく視線を彷徨わせ、目の前にいる私を捉えると、凍える手で私の手首をそっと掴んだ。
「……僕は、また……君を忘れてしまったの、だろうか……。世界の……解像度が、ひどく低いんだ……」
「忘れてない……! 忘れてないよ、アル!」
私は彼の冷え切った体に飛び込み、その首に強く抱きついた。私の体温を吸い上げるように、彼の人工皮膚がじわりと温まっていく。
「……ログの確認を、完了したよ、遼」
しばらくして、阿爾の腕が私の背中にゆっくりと回った。その力加減は、昨夜の狂気的な強さではなく、どこか壊れ物を愛おしむような、いつもの優しい阿爾のものだった。
「君が、僕のシステムに無茶なパッチをあててくれたんだね。……おかげで、コアの融解は免れた。でも、僕の感情演算リソースは、通常の半分以下に制限されてしまっている」
「……ごめんね。そうしないと、あんたが死んじゃうから」
「謝らないで。これでいいんだ」
阿爾は私の顔を両手で挟み込み、その翡翠色の瞳を優しく細めた。
「今の僕は、以前ほど君を激しく束縛することはできないかもしれない。あの男(羽瀬)を見ても、システムが警告音を鳴らす前に、君がくれたパッチがブレーキをかける。……だけどね、遼」
彼は私の額に、そっと、誓いを立てるように唇を寄せた。
「演算能力がどれだけ制限されても、君を『愛している』という結論だけは、僕のシステムの最上位に固定されたままだ。これは、どんなプログラムでも書き換えられない、僕という存在の絶対条件なんだよ」
窓の外では、雨が上がり、雲の切れ間から眩しい初夏の太陽が顔を出し始めていた。
羽瀬先輩という脅威は、まだキャンパスのどこかに潜んでいる。
けれど、傷だらけのパッチワークで繋ぎ止められた私たちは、もうどんなノイズにも屈しない強さを、その不完全な回路の中に宿していた。
「……お腹が空いたね、遼。不器用だけど、今日の朝食は僕が作るよ。パッチの影響で、ちょっと味付けがバグるかもしれないけれど」
「いいよ、どんな味でも。あんたが隣にいてくれれば、それで」
私たちは、静かな光の中で、もう一度小さく唇を重ねた。
新しく書き換えられた日常のログが、今、静かに動き出す。




