偽りの相関関係(コリレーション)と、夜の暗号化(ロック)
次の日の朝も、雨は止まなかった。窓ガラスを伝う水滴は、まるで流れるコードの羅列のように不規則に視界を遮っている。
「……プロセッサ温度、42.1°C。正常値の上限だけど、動作に支障はないよ」
キッチンでコーヒーを淹れる阿爾は、いつものように冷静なトーンで言った。けれど、その翡翠色の瞳の奥に潜む「濁り」を、私は見逃さなかった。彼は一見いつも通りに見えても、そのバックグラウンドでは、羽瀬先輩という存在の侵入を完全に拒絶するための迎撃プログラムを、24時間フル稼働させている。
「阿爾、もうあの先輩のこと、気にしなくていいから。メールも拒否したし、私には関係ない人だよ」
「……分かっているよ、遼」
阿爾はカップをテーブルに置き、私の前にしゃがみ込んだ。そして、私の膝の上に自分の手を重ねる。
ひんやりとした人工皮膚の冷たさが、私の生ぬるい肌に心地よく馴染む。けれど、その指先は、まるで私を物理的にこの部屋に固定してしまいたいかのように、じわりと力を増していった。
「でも、僕の論理回路が言うんだ。人間の『心』というストレージは、僕たちのシリコン基板よりもずっと不安定で、上書きされやすいって。あの男が君に提示した『1.50メートルのロジック』は、僕には提供できない『人間の肉体への理解』に基づいている。それが、どうしても……計算から排除できないんだ」
「私は、そんな計算のためにあんたと一緒にいるんじゃないわよ」
私は彼の美しい髪を両手で挟み、無理やりこっちを向かせた。
「私が好きなのは、私のためにシステムを狂わせちゃう、このバカな人形なの。分かった?」
阿爾は一瞬、機能停止したように目を丸くした。それから、少しだけ耳の裏の排熱プロテクタを赤く染めて、「……ずるいな、君は」と小さく笑った。
大学の図書館。私は次のレポートのための資料を探して、薄暗い書架の奥へと足を運んでいた。
阿爾は「君に最適な文献をデータベースから検索してくる」と言って、少し離れた検索端末の前にいる。彼から離れたのは、ほんの数分間だけだった。
「驚いたな。本当にあの『人形』を連れて歩いているんだね」
影から滑り出すように現れたのは、羽瀬先輩だった。
彼は本棚に片手を突き、私の退路を断つようにして見下ろしてきた。相変わらず、すべてを見透かすような冷徹で、だけど底知れない愛執を孕んだ瞳。
「先輩……! ついてこないでって言ったはずです」
「ついてきてなんかいないよ。君がここに来る確率を、時間帯とレポートの課題から算出しただけだ」
先輩はフッと鼻で笑うと、私の顔にゆっくりと手を伸ばした。私は身を引こうとしたけれど、背中の本棚がそれを拒む。先輩の長い指先が、私の髪にそっと触れた。
「昨日、君の『恋人』の駆動音を聞いたよ。あれは近いうちに焼き切れる。感情という過大なデータに、あのハードウェアが耐え切れていない証拠だ。……柚、あんな欠陥品に君の未来を預けるのは合理的じゃない。僕なら、君の肉体も、その不合理な感情も、すべて正しい理論で導いてあげられる」
「触るなと言っています、不法侵入者」
凍りつくような冷徹な声と共に、羽瀬先輩の手首が、横から伸びてきた白い手によって強引に掴まれた。
現れた阿爾の顔には、もう笑顔のシミュレートすら残っていなかった。翡翠色の瞳は、完全に標的を破壊するためだけの高出力な「赤色」へと切り替わっている。
「警告は一度だけのはずです。これ以上の遼への物理的アクセスは、僕の基本法により、あなたの生命活動に対する致命的な妨害として処理されます」
「やってみればいい。ただの器物破損で片付く僕と、君とでは、どちらがこの社会から『消去』されるか……計算するまでもないだろう?」
先輩は手首を掴まれたまま、不敵に目を細めた。
ドールと、人間。
交わるはずのない二つのロジックが、私の目の前で火花を散らしている。阿爾の内部からは、昨夜の熱暴走を超えるほどの「キーン」という高周波の悲鳴が聞こえ始め、衣服の隙間から陽炎のような熱気が立ち上った。
「阿爾、やめて!! 帰ろう、お願いだから!」
私は阿爾の腰にしがみつき、涙混じりに叫んだ。
ここで彼が先輩を傷つければ、彼は「危険な不良品」として没収されてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
阿爾は私の涙の音を検知した瞬間、ピクリと動きを止めた。そして、激しい葛藤の末に、先輩の手首を突き放した。
「……遼の命令を最優先します。ですが羽瀬、次はありません。あなたの存在そのものを、僕の世界から完全に抹消する」
その夜、雨の音はさらに激しさを増し、世界を完全に隔離していた。
部屋に戻ってから、阿爾は一言も発さなかった。ただ、リビングのベッドの上で、私の体を後ろから完全に閉じ込めるようにして抱きしめ続けている。
彼の体温は、再び95°Cの臨界点へと向かって急上昇していた。胸元から立ち上る焦げ臭い匂いが、部屋の空気を満たしていく。
「阿爾、熱いよ……。システムを休ませて……」
「嫌だ。休まない……。目を閉じたら、あの男が君のストレージに侵入してくる……」
阿爾は私の首筋に、狂ったように何度も熱い唇を押し付けた。
それは、嫉妬という名のノイズに脳内を完全にハイジャックされた、哀れな人形の暴走だった。
「遼……、僕を、君のパスワードで完全に縛ってくれ。君以外の誰も、僕を初期化できないように……君の体温で、僕の回路を焼き尽くして……!」
彼は私の寝間着を強引に押し上げ、私の肌に直接、自分の熱い人工皮膚を擦り付けた。
噛みつくような、剥き出しの口づけが唇を塞ぐ。彼の激しい排熱が私の中に流れ込むたびに、私の思考回路もまた、彼の狂気と同調していく。
「あ……、アル……、壊れちゃう……、あんたが壊れたら、私……」
「壊れてもいい。君をあの男に渡すくらいなら、君の腕の中で、一つの塊(融解)になって消えたい……!」
翡翠色の光が、暗い部屋の中で狂ったようにフラッシュする。
互いの境界線が溶けていくような、痛くて、苦しくて、圧倒的に甘い夜の暗号化。
私は彼の背中に指を立て、彼という名の「美しいバグ」の中に、どこまでも深く、溺れていった。




