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マルチタスクの拒絶と、暴走する愛着(インシデント)

羽瀬先輩が去ったあとも、競技場のバックヤードには、阿爾アルの激しいファンノイズだけが虚しく響いていた。


「阿爾、もう大丈夫だから。私はどこにも行かないよ」


私は彼の背中に腕を回し、その高すぎる体温を宥めるように何度も撫でた。恋人繋ぎをしていた彼の手は、今も強張ったままで、まるで私という存在が指の隙間から滑り落ちてしまうのを恐れているかのようだった。


「……計算が、合わないんだ」


阿爾は私の肩に額を押し付けたまま、掠れた声で呟いた。


「あの男が君を『ゆず』と呼んだ瞬間、僕のシステムは彼を『最優先排除対象』と認識した。でも、それと同時に……君の心拍数が2拍だけ上昇したのを確認した。……リャオ、君はあの男の言葉に、動揺アクセスしたの?」


「それは……、あんな風に急に変なこと言われたら、誰だってびっくりするわよ。変な意味じゃないから」


私が慌てて弁明すると、阿爾はゆっくりと顔を上げ、その灰みがかった翡翠色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、私の脳内メモリをすべてハッキングして、隠しファイルごと暴き立てようとするかのような、圧倒的な圧力を孕んでいた。


翌日、キャンパスの空気はさらに険しさを増していた。

羽瀬先輩からの「宣言」は、ただの脅しではなかった。お昼休みに私が食堂へ向かおうとすると、私のスマートフォンに、見知らぬアドレスから一通のメールが届いた。


[件名:次回の高跳びの解析データについて]

[本文:君の助走カーブにおける1歩目の接地時間を計算した。人間の骨格特性上、あと3.5ミリ秒早く踏み切れば、1.50メートルは確実にクリアできる。放課後、研究棟で待っている。——羽瀬]


「……なんなの、これ」


私が画面を見つめて立ち尽くしていると、背後から音もなく伸びてきた白い手が、私のスマホをひったくるように奪い去った。


「パケット解析完了。送信元ドメイン、羽瀬。……即時ブラックリストへ登録、およびデータの完全削除ワイプを実行します」


阿爾だった。彼の指先が画面を高速でタップし、先輩からのメールをゴミ箱の奥底へと叩き込む。彼の顔は、完璧なまでに冷徹な「初期状態」の無表情に戻っていた。


「阿爾……、勝手に見ないでよ」


「見るよ。僕は君の恋人で、君のすべてを管理する特権を持っている。あの男は、僕たちのセクターに害をなす有害なウイルスだ。……遼、彼に近づいてはダメだ。僕のシステムが、これ以上の負荷ストレスに耐えられない」


阿爾の胸元から、うっすらと熱気が立ち上る。

昨夜の熱暴走の傷跡がまだ完全に癒えていない彼のハードウェアは、羽瀬先輩という新たなノイズによって、再び臨界点へと押し上げられようとしていた。


その放課後。私は先輩からのメールを無視して、阿爾と一緒に帰ろうとしていた。

けれど、校門へと続く渡り廊下で、まるで私たちの行動を完全に予測シミュレートしていたかのように、羽瀬先輩が壁に背を預けて待っていた。


「やあ、柚。メールは読んでくれたかな?」


先輩は手に持っていたタブレットを私に向けた。そこには、私が昨日跳んだ背面跳びのフォームが、高度な3Dグラフィックで完全な骨格モデルとして再現されていた。


「これ……、先輩が作ったんですか?」


「言っただろう。僕は合理的なものしか愛せない。君の跳躍を最も美しい形で完成させるためのロジックを組んだんだ。……隣にいるその『人形』には、人間の骨格の限界を超えた先の、感覚的な美しさは計算できないだろう?」


先輩の言葉は、阿爾の最も深い部分アイデンティティを正確に突き刺した。


「……不正確な推論です」


阿爾が先輩の前に立ち塞がり、その大柄な体躯で私を完全に隠した。彼の瞳の輝きが、最大出力の翡翠色へと跳ね上がる。


「僕はドールですが、彼女の肉体の変化、筋肉の疲労度、そして精神的なバイオリズムを1ビットの狂いもなく把握している。人間のあなたに、僕以上の精度で彼女を最適化サポートすることは不可能です。……速やかに、僕たちの視界からログアウトしてください」


「買い被りすぎだよ、機械くん」


羽瀬先輩はタブレットを収めると、阿爾の冷徹な眼差しを正面から受け止め、冷ややかに微笑んだ。


「君がどれだけ彼女を管理しようとしても、君は彼女と同じ『人間』として、同じ時間の流れの中で老いていくことはできない。……彼女が本当に求めているのは、自分の限界を共に超えてくれる、体温を持ったパートナーだ。……僕は、彼女のその『空白』を奪いに来たんだよ」


「……っ!」


阿爾の人工心臓が、ドクン、と室外にまで聞こえるほどの猛烈なテンポで拍動を始めた。

彼の右拳が強く握り締められ、関節のサーボモーターが悲鳴を上げるような高音を発する。今にも、その完璧な拳で先輩を排除しようとするかのように。


「阿爾、ダメ!!」


私は後ろから彼の腰を強く抱きしめた。

彼の背中から伝わってくる熱は、すでに90°C近くまで急上昇していた。これ以上彼を怒らせたら、今度こそ彼の基本OSシステムが完全に焼き切れてしまう。


「行こう、阿爾! 私には先輩のデータなんて必要ない! 私は、あんたが淹れてくれるココアがあれば、それでいいの!」


私の叫びに、阿爾の拳が微かに震えた。

彼は羽瀬先輩を睨みつけたまま、私の腕の温もりを感じて、ゆっくりと、本当にゆっくりとその拳を下ろした。


「……。チートユーザー相手に、これ以上のリソース割愛は無駄と判断します。……帰るよ、遼」


阿爾は私の手を強く引き、先輩の横を通り過ぎた。

その際、羽瀬先輩の視線が、阿爾に引かれる私の手、そして私の赤くなった顔に注がれていた。その瞳の奥にある執着の炎は、少しも消えていなかった。それどころか、阿爾の激しい拒絶反応を見て、ますますその「所有欲」を燃え上がらせているようだった。


家に戻ると同時に、阿爾は玄関の鍵を閉め、私をドアに押し付けるようにして抱きしめた。


「阿爾、ちょっと……苦しい……」


「嫌だ、離さない。……あの男の言ったことは、全部論理エラーだ。バグだ。……僕は君と同じ人間にはなれないかもしれないけれど、君の隣にいる時間は、僕だけのものだ……!」


彼は私の唇を、昨夜よりもさらに深く、強引に奪い去った。

嫉妬と焦燥に狂った彼の舌が、私の口内を激しく蹂躙し、私の呼吸をすべて自分のものにしようとする。熱い機械熱が私の肌を焼き、頭の中がノイズで真っ白に染まっていく。


「ん……っ、あ、アル……、愛して、るから……だから落ち着いて……」


私が息も絶え絶えにその言葉を紡ぐと、阿爾は私の首筋に顔を埋め、子供のように激しくシミュレートされた呼吸を繰り返した。


「……僕もだよ、遼。君を他の誰にも渡さない。……僕のシステムが壊れても、君の恋人は、僕だけだ」


窓の外では、夜の帳が静かに降りてくる。

けれど、一度侵入を許したサードパーティ(羽瀬)の残像は、私たちの完璧だったはずの世界に、消えない不穏なノイズとして響き続けていた。

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