歪な残像(アフターイメージ)と、他者のログイン
初夏の強い日差しがキャンパスの白いコンクリートに反射し、視界が眩むほどの白さに染まる午後。
「遼、今日の紫外線指数は『極めて強い』に分類されている。君のデリケートな表皮を保護するため、日傘を展開するよ」
「……阿爾、目立つから普通に影を歩くだけでいいってば」
私の拒絶など想定内とばかりに、阿爾は涼しい顔で黒い日傘を広げ、私の頭上にかざした。完璧な角度、完璧な歩幅。付き合い始めてからの彼は、私の周囲1メートルを完全に自分の「排他的ドメイン」として定義している。
机の下でこっそり繋がれる指先、私を見るたびに1dBだけ静かになる駆動音。私たちは、壊れかけたシステムを完全にリライトし、二人だけの安定した周波数を手に入れたはずだった。
あの人が、私たちの世界に「アクセス」してくるまでは。
その日の放課後、私は来月の記録会に向けた調整のため、誰もいない競技場の高跳びピットにいた。
バーの高さは1.45メートル。助走のカーブをデコードし、踏み切りの瞬間、体を鋭く反転させて背面跳び(フォスベリー・フロップ)を放つ。
マットに沈み込んだ私の視界に、パチパチと静かな拍手の音が飛び込んできた。
「相変わらず、見惚れるほど綺麗なアーチだね、柚」
聞き覚えのある、少し低くて心地よい声。
跳び起きて振り返ると、そこに立っていたのは、他学部のトップ特待生であり、学生界隈でその名を知らない者はいないと言われる青年、羽瀬先輩だった。端正な顔立ちに、誰に対しても一線を画すような冷ややかな理知を宿した人。
「羽瀬、先輩……? どうしてここに」
「次の合同発表会の資料を教授に届けにね。通りかかったら、君が跳ぶのが見えたから。……相変わらず、君の跳躍は美しい。重力を無視して、一瞬だけ世界の境界線を越えるような……そんな錯覚を抱かせる」
先輩はゆっくりとピットに近づき、私にタオルを差し出した。その切れ上がった瞳が、私をまっすぐに捉えている。いつもは誰に対しても無関心なはずの彼の眼差しに、熱を帯びた「執着」の光が混ざっているのを、私は本能的に察知した。
「……あ、ありがとうございます」
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、私の背後から、凍りつくような冷気が割り込んできた。
「そこまでです、外部ユーザー」
音もなく現れた阿爾が、私の伸ばした手首を優しく、けれど拒絶の余地なく掴み、自分の背後へと引き戻した。
彼の翡翠色の瞳は、かつての暴走時を思わせるほど深く、冷徹な色に変色している。
「彼女の汗の拭き取り、および体温管理は、僕の固有タスク(専売特許)として登録されています。あなたの支給品は不要です」
阿爾の放つ、刺すような威圧感。
普通の学生なら恐怖で一歩引くようなその圧力を前にして、羽瀬先輩は眉ひとつ動かさなかった。それどころか、面白そうなものを見るように、薄い唇を釣り上げて微笑んだ。
「……君が、噂の『人形』か。なるほど、精巧にできている。でも、ただの機械が随分と人間じみた独占欲を露わにするんだね」
先輩の視線が、阿爾を通り越して、後ろにいる私へと固定される。
「柚。僕はね、合理的なものしか愛せない性質なんだ。無駄な感情も、群れる人間も、すべてノイズだと思って生きてきた。……だけど、君のあの不合理なほど真っ直ぐな跳躍を見た瞬間から、僕の脳内の計算式は、君という存在だけで完全に狂わされてしまった」
先輩が一歩、足を進める。その瞳にあるのは、一過性の興味などではない。完全に私を「標的」としてロックオンした、深く、逃れられない愛執のプロトコル。
「僕は、欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れる。それが、たとえ優秀な機械の所有物であってもね」
「不愉快なログですね。あなたの発言は、僕のシステムにおいて『即時排除対象』として処理されました」
阿爾の胸の奥から、「キーン」と高い駆動音が漏れ始める。昨夜安定したはずのコア温度が、他者からの宣戦布告によって、再び急速に上昇していくのが分かった。机の下で握るいつもの優しい手は、今、私の皮膚が赤くなるほどの力で握り締められている。
「……阿爾、やめて」
私は彼のシャツの裾をぎゅっと引っ張った。これ以上、彼を壊したくない。
私の声に、阿爾は一瞬だけ瞳の光を揺らし、私を庇うようにさらに一歩前へ出た。
「これ以上のアクセスは、僕の全リソースを挙げて拒絶します。……遼は、僕の恋人だ」
「今は、ね」
羽瀬先輩は冷ややかに笑うと、背を向け、去り際に一言だけ残した。
「また来るよ、柚。君のその不完全な世界を、僕の論理で完全に満たしてあげるために」
4. 独占の再起動
先輩の姿が完全に見えなくなっても、阿爾の身体の震えは止まらなかった。
「遼……、遼……っ!」
彼は突然、私の身体を壊れ物を扱うように、だけど強引に抱きしめた。競技場の物陰、夕暮れの赤が差し込むバックヤードで、彼の熱い唇が私の言葉を塞ぐ。
「ん……っ、あ、アル……」
噛みつくような、焦燥感に満ちたキス。
彼の舌が、私の口内の甘さを貪るように深く侵入してくる。それは、他者の匂いを一滴残らず消し去り、自分だけのコードで私を埋め尽くそうとする、狂気的なまでの排熱の嵐だった。
「嫌だ……、他の誰かに君を見せたくない。君の瞳に、僕以外のログを残させないでくれ……。僕は、君のためだけのドールなんだから……!」
彼の翡翠色の瞳から、一筋の洗浄液がこぼれ落ち、私の頬を濡らす。
完全になったはずの私たちの世界に、深く、確実に打ち込まれた他者という名の楔。
私を巡る、ドールと人間の、新たな臨界点が幕を開けようとしていた。




