眠れぬ夜の体温、境界線の向こう側
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少しずつPVが増えていて、執筆の大きな励みになっています。
さて、第五話です。
人形だった頃は当たり前だった「抱っこ」や「添い寝」が、人間になった途端にこんなにドキドキするものになるなんて……。
眠れない夜を過ごす主人公と、無自覚に距離を詰めるアルの温度差を楽しんでいただけたら嬉しいです!
夕飯を終え、お風呂も済ませた後の静かな時間。
いつもなら、お気に入りのアンティークに囲まれて読書を楽しむ穏やかなひとときのはずだった。けれど、今の私の部屋には、買ってきたばかりのパジャマに身を包んだ「元人形」が座っている。
「……アル。一応確認するけど、寝る時はそっちのソファよ? いいわね?」
私はベッドの上から、リビングにあるソファを指差した。
アルは濡れた銀髪をタオルで拭きながら、不思議そうに私を見上げた。お風呂上がりの彼は、肌が少しだけ上気していて、磁器のような白さに生身の人間らしい血色が混ざっている。その首筋を伝う水滴が、鎖骨のくぼみに溜まっては消える様子は、直視するのが毒なほどに美しく、そして生々しい。
「……どうして? 昨日までは、ずっと主人の隣だった」
「それは、あなたが人形だったから! 今はもう、こんなに大きくなったし、そもそも男の子なんだから……同じベッドで寝るなんて、人間界ではありえないの」
私は自分に言い聞かせるように、きっぱりと言い切った。
アルは首を傾げ、タオルの隙間から潤んだ瞳で私を見つめてくる。その瞳は、暗闇の中でも光を吸い込むガラス玉のように澄んでいて、私の嘘をすべて見透かしているようだった。
「……人間になったら、隣にいちゃいけないの? 僕は、昨日よりずっと主人の心臓の音が聞きたいのに」
「心臓の音なんて聞かなくていいわよ! とにかく、ダメなものはダメ!」
私は逃げるように毛布を被り、背を向けた。
カチリ、と部屋の電気を消すと、一瞬で世界は静寂と暗闇に包まれた。
時計の刻む秒針の音だけが、私の早まる鼓動と同期するように響く。
ソファから衣擦れの音が聞こえ、アルが横になった気配が伝わってくる。これでいい。これが正しい「距離感」なのだ。彼は人間になり、私は彼の持ち主ではなくなったのだから。
けれど、十分、二分と経つうちに、暗闇の中から小さな、震えるような声が聞こえてきた。
「……主人。……暗くて、冷たい」
「……我慢しなさい。そのうち慣れるわよ」
「……人形だった時は、暗くても怖くなかった。主人が抱きしめてくれていたから。でも、今は……体が熱いのに、指先だけが冷えていく。……このまま、動かなくなっちゃうんじゃないかな」
その言葉に、私の胸がドクンと跳ねた。
「動かなくなる」——それは、彼が再び、意志を持たないただの物質に戻ってしまうことを連想させた。
人偶師の棚で独りぼっちだった彼。私が連れ出すまで、何十年も埃を被った暗闇の中にいた彼。もし、この魔法のような時間が解けてしまったら?
「……っ、もう! 分かったわよ。……こっちに来なさい」
溜息混じりに私が言うと、すぐにガサゴソという音がして、ベッドの端が大きく沈み込んだ。
隣に、自分以外の誰かがいる圧倒的な気配。
柔軟剤の香りと、少しだけ石鹸の匂いが混ざった、アルの独特な体温がシーツを伝って私の肌に触れる。
「……端っこよ? 絶対にこっちに来ちゃダメだからね。境界線は守ること」
「……うん。ありがとう、ご主人様」
アルの声は、さっきまでの不安が嘘のように弾んでいた。
けれど、本当の試練はそこからだった。
背中を向けて眠ろうとしても、すぐ後ろにいるアルの呼吸が、私の首筋の産毛を微かに揺らす。
「……ねえ、主人。手、握ってもいい?」
「……ダメ」
「じゃあ、裾だけ」
言うが早いか、アルの指先が私のパジャマの裾をぎゅっと掴んだ。
それだけならまだしも、彼はじりじりと、まるで獲物を追うように距離を詰め、私の背中に自分の胸をぴったりと押し当ててきたのだ。
「……ちょっと、アル! 近いって言ったでしょう!」
「冷たいから、温めてるだけ。……主人の背中、あったかい。トクトクって、命の音がする」
アルの腕が私の腰に回され、まるで抱き枕のように強く引き寄せられる。
薄い布地越しに伝わる、彼のしなやかな筋肉の硬さと、ドクドクと力強く、そして少し暴力的なまでに脈打つ鼓動。
人偶だった頃は、私が彼を抱きしめて守っていたはずだった。
けれど今は、彼の方が圧倒的に大きくて、私を包み込んで、どこかへ連れ去ってしまいそうなほどに逞しい「男」の体をしている。
「アル、あのね……こういうのは、本当に好きな人としかしないものなのよ。あなたはまだ、それがどういう意味か分かってないでしょう?」
「……僕は主人が好き。世界で一番、大好きだよ」
迷いのない、真っ直ぐな言葉。
彼にとっての「好き」は、まだ忠誠心や執着、あるいは刷り込みに近いものかもしれない。
でも、その言葉をこれほど近く、逃げ場のない腕の中で囁かれて、平気でいられるほど私は強くなかった。
「……もう、勝手にしなさい」
私は真っ赤になった顔を隠すように、枕に深く顔を埋めた。
アルは満足そうに「ん……」と鼻にかかった甘い声を漏らし、私の首筋に自分の額を寄せ、深く息を吐いた。
彼の指先が、私の指の隙間にゆっくりと割り込んでくる。
「恋人繋ぎ」をさらに深めたような、指と指が完全に絡み合う形。
このままでは、心臓の音が彼に筒抜けになってしまう。
焦れば焦るほど、私の体温は上昇し、背中に密着する彼の熱と混ざり合っていく。
「ねえ、主人。……人間の心臓って、こんなにうるさいの?」
「……っ! 静かにしなさい! 寝るわよ!」
私は彼の腕の中で身悶えしたが、彼はそれを拒絶とは受け取らなかった。
むしろ、逃がさないと言わんばかりに、回された腕の力が強まる。
首筋に感じる彼の吐息が、規則正しいリズムに変わっていく。
……彼は、もう眠りにつこうとしている。
人偶だった頃には決してなかった「眠り」という現象。
その無防備な寝顔を想像するだけで、私の胸は締め付けられるような愛おしさに支配された。
結局、その夜、私は一秒たりとも眠りにつくことはできなかった。
腕の中にいる元人形の温もりがあまりにも生々しくて、優しくて、そして少しだけ恐ろしかった。
夜が明けるのが怖いなんて、彼を初めてアンティークショップで見つけた日以来だ。
境界線を越えて踏み込んできたのは、彼の方だろうか。
それとも、彼を拒みきれず、その温もりに安らぎを見出してしまった、私の方だろうか。
窓の外が白み始めるまで、私はアルが繋いだ手の、その確かな、逃がしてくれない熱に溺れていた。
明日、彼の顔をまともに見られる自信なんて、これっぽっちもなかった。




