独り占めの体温、離さない指先
服を買い終えて帰宅した頃には、西日がリビングをオレンジ色に染めていた。
窓から差し込む長い影が、室内のアンティーク家具たちをいつもより少しだけ寂しげに見せている。
慣れない人混み、アルに向けられる好奇の視線、そして彼が時折見せる「人外」ゆえの危うさ。それらに神経を尖らせていた私は、玄関に足を踏み入れた瞬間、糸が切れたようにくたくただった。
「ふぅ……。とりあえず、これで明日から着るものには困らないわね。アル、その服はもう脱いでいいわよ」
買ってきた紙袋をソファに置き、キッチンへ向かおうとしたその時だった。
「っ……!?」
背後から、強い力で腰を抱きしめられた。
厚手のスウェット越しでもはっきりと分かる、阿爾那結實卻又帶著少年感的雙臂。
「……アル? 急にどうしたの?」
背中に伝わる、少し速い鼓動。
アルは私の肩に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。まるで、肺の中の空気をすべて私の匂いで塗り替えようとしているみたいに。
「……落ち着く。さっきのところ、変な匂いがした。主人の匂いじゃないのが、たくさん。……嫌だった」
低くて少しだけくぐもった声。
彼は人偶だった頃、ずっとあの静かな棚の上で、私だけが放つ生活の匂いを頼りにして生きていたのかもしれない。そう思うと胸の奥がチリりと痛んだけれど、今の彼は「物」ではないのだ。
「それは……お店だし、人もいたから。ほら、もう家なんだから離して。夕飯の支度もしなきゃいけないし」
引き離そうと彼の腕に手をかける。けれど、アルの腕はびくともしない。
磁器のように白く繊細な指先からは想像もつかないほど、男の子としての確かな力強さがそこにはあった。
「……嫌だ。さっき、あの人間が僕に触ろうとした」
不意に彼の腕に力がこもる。
「店員さんでしょう? お仕事なんだから、そんなに怒らなくても……」
「僕に触れていいのは、主人だけだ。……そう決めた。主人が、僕を選んでくれたあの日から」
耳元で囁かれる、熱を帯びた言葉。
彼は、自分がどれほど独占欲に満ちた、恥ずかしいことを言っているのか本当に分かっていない。その無垢さが、かえって私の理性を狂わせる。
「アル、あなたはもう『物』じゃないの。人間になったら、他の人と接することだって……」
「人間になったら、主人の『特別』じゃなくなるの?」
アルが私の体をくるりと反転させ、逃げ場を奪うように私を壁と自分の間に閉じ込めた。
——壁ドン。
少女漫画でしか見たことのないシチュエーション。けれど、彼に威圧感はない。そこにあるのは、ただ、捨てられることを恐れる子供のような、悲痛なほどの純粋さだ。
至近距離で見つめ合うと、彼の瞳の奥に広がる銀色の光彩が、夕日に反射してゆらゆらと揺れているのが見えた。
「……特別よ。あなたが私の大切なお人形だったことは、一生変わらないわ」
「じゃあ、証明して。僕の体が、まだ主人のものだって……」
アルが差し出したのは、彼の手のひらだった。
そこには、さっき店員さんが採寸のために触れようとした腕のあたりを、自分で強く擦ったような赤みが痛々しく残っている。
「ここ、主人の体温で上書きして。……そうじゃないと、さっきの感触が消えなくて、気持ち悪いんだ」
そう言って、彼は私の手を取り、自ら自分の頬や、細い首筋、そしてドクドクと脈打つ鎖骨のあたりへと導いた。
吸い付くような、きめ細やかな肌の質感。
昨日まで冷たかったはずの場所が、今は私の体温を貪るように熱を帯びている。
「アル……。あなた、ずるいわ……」
そんな捨てられたような瞳で頼まれたら、断れるはずがない。
私は溜息をつきながら、彼の頬を両手でそっと包み込んだ。
そのまま親指の腹で、彼の薄い唇の端を、慈しむようになぞる。
「……これで満足?」
「……足りない。もっと、ずっと。……夜まで、僕から離れないで」
アルは満足げに目を細め、私の手のひらに猫のように何度も頬ずりをした。
その無防備な懐き方に、私の胸の奥がキュンと締め付けられ、喉の奥が熱くなる。
この子は、まだ本当の「恋」を知らない。
ただ、私という存在を唯一の拠り所として、本能で刻み込もうとしているだけ。
それなのに、私の方は——。
「元人形」を相手に、どうしようもなく「男の子」として意識してしまっている。
「……わかったわよ。夕飯ができるまで、ずっと隣にいていいから。その代わり、キッチンでは大人しくしてること、いい?」
「……約束だよ、ご主人様」
そう言ってふわりと微笑む彼の顔は、世界中のどんな高価な芸術品よりも美しく、そして危うい魅力を放っていた。
今日、私は確信した。
この「元人形」との生活は、私を少しずつ、でも確実に変えていく。
明日には、もっと彼を離したくないと思ってしまうかもしれない。
キッチンへ向かう私のパジャマの裾を、アルの指先がまた、一瞬の隙も与えないようにぎゅっと掴んだ。
その小さな抵抗が、今の私には、何よりも愛おしくて、そして恐ろしかった。




