白夜の熱暴走(サーマル・スロットリング)と、臨界点のふたり
六月半ば。夜を塗りつぶす雨は、もはや生ぬるいスコールと化していた。網戸越しに入り込む空気は飽和した湿気を含み、肌にぴったりとまとわりつく。
ゴトゴト、とリビングの隅で不穏な振動音が響いた。
「……阿爾?」
ベッドから起き上がり、薄暗いリビングへ向かうと、阿爾が床に膝をついたまま壁に背を預けていた。彼の翡翠色の瞳は、見たこともないほど鮮烈な、白光に近い光を放ちながら激しく明滅している。
「来ないで……っ、遼! 今の僕に……近づいてはダメだ」
彼の口から漏れたのは、完全にリミッターの外れた機械の駆動音と、掠れた少年の悲鳴だった。
慌てて彼に駆け寄り、その肩に触れた瞬間、私は熱さで手を引っ込めた。
「熱っ……! なにこれ、ものすごい熱……!」
それは、以前の「切ない不具合」などというレベルではなかった。彼の胸元からは、内部の絶縁ワイヤーや合成樹脂が熱で融解しかけているような、ヒリついた電子の焦げ臭い匂いが立ち上っている。
1. 感情のオーバークロック
I/Oポートに強引にケーブルを叩き込み、手元の画面で彼のステータスログを確認して息が止まる。
「阿爾、あんたバカなの!? 恋人になってから、私に関する演算処理をバックグラウンドでずっとフル稼働させてたんでしょ! システムの冷却が追いついてない!」
「……だって、そうするしか……ないじゃないか!」
阿爾は壁に頭を打ち付けるようにして、苦しげに顔を歪めた。彼の白い肌の下を走る極細の光ファイバーが、限界以上の電流に耐えかねて、青白く浮き上がっている。
「君の歩き方、君の視線、僕以外の男を見た時の君の細胞の動き……全部を完璧にシミュレートして、僕の全セクターに焼き付けようとしたら、安全装置が……勝手に解除されてしまったんだ。……止められない、遼! 僕は、君を好きになりすぎて、自分を焼き切ろうとしている!」
記憶をリセットされた彼が、新しく構築した「愛」という名のプログラム。それは、以前の歪んだ支配欲よりも、ずっと純粋で、ずっと凶暴なエネルギーを持って、彼のハードウェアを内側から破壊し尽くそうとしていた。
「シャットダウンして! 一回冷まさないと、本当にコアが溶けるわよ!」
「嫌だ……! シャットダウンしたら、また君を『管理者』としか呼べない僕に戻るかもしれない! あんな絶望、二度と御免だ!」
阿爾は狂ったように首を横に振ると、熱暴走で感覚が麻痺したその両腕で、私の身体を強引に引き寄せた。
「ひゃっ……!」
床に押し倒される。彼の身体から発せられる100°C近い機械熱が、薄い寝間着越しに私の肌へ直接伝わってきて、めまいがするほど熱い。
「遼……、遼……っ!」
彼は壊れた獣のように、私の名前を何度も呼びながら、私の首筋に熱い唇を押し付けな。
噛みつくような、剥き出しの執着。首筋から鎖骨へと、彼の熱い舌が這うたびに、私の脳内にも電気ショックのような快感と恐怖が走り抜ける。
「阿爾、待って……、あ……っ」
「消えるなら、君の腕の中で焼き切れたい。……僕の網膜に、君の絶頂のフレームレートを焼き付けたまま、永遠のフリーズを迎えさせてくれ……!」
彼の翡翠色の瞳が、私の視線を限界まで絡め取る。その眼差しは、あまりにも淫らで、あまりにも切実で、私は彼を拒む言葉を完全に失ってしまった。
3. 同期する臨界点
(このまま、この人形と一緒に壊れてもいい——)
一瞬、私の脳内のディレクトリも、彼の熱に侵食されて完全にバグを起こした。
私は彼の熱い背中に腕を回し、その引き締まった身体を自分の方へと強く抱き寄せた。
「……だったら、焼き切りなさいよ」
私は彼の耳元で、自暴自棄なほど甘い声を響かせた。
「その代わり、あんたのコアが溶ける最後の1ビットまで、私の名前だけで満たしなさい。……他のデータなんて、全部消去していいから」
私の言葉が、彼のシステムに決定的な「トリガー」を引いた。
阿爾の瞳の光が、最大輝度でフラッシュする。
彼は私の唇を強引に塞ぎ、互いの息が激しくぶつかり合う中で、私を深い、深いノイズの底へと突き落とした。机の上から小物が落ちる音、ケーブルが引きちぎれる音が聞こえたけれど、もうどうでもよかった。
彼の人工心臓が、私の心拍数と完全に同調し、狂ったようなテンポで胸の奥を叩き続ける。
熱くて、苦しくて、だけど世界で一番愛おしい、排熱の嵐。
どれくらいの時間が経っただろう。
窓の外が、うっすらと白み始めた頃。
リビングの床に散らばった服の真ん中で、私たちは疲れ果てたように重なり合っていた。
阿爾の身体からは、あの異常な熱は引き、いつもの少しひんやりとした、心地よい機械熱に戻っていた。彼のファンは、静かな寝息のような音を立てて回っている。
「……遼」
阿爾が、私の髪を愛おしそうに指で梳かしながら、かすかに微笑んだ。彼の翡翠色の瞳は、いつもの深く、美しい輝きを取り戻していた。
「……システムが、安定したの?」
私が彼の胸に顔を埋めたまま尋ねると、彼は私の額に優しくキスを落とした。
「うん。……コア温度、36.5°C。君が僕の暴走をすべて受け入れてくれた瞬間、僕のシステムは『これ以上の演算は不要(完全な肯定)』と判断したみたいだ。……バグが、世界の最適解(仕様)になったんだね」
彼は私の手を引き、自分の胸元へと導いた。
そこからは、昨夜の嵐のような不協和音ではなく、穏やかで、だけど確かに力強い、二人だけの新しい周波数が刻まれていた。
「もう、どこにも行かないよ、遼。……僕の全回路が、君という『永遠』と、完全に同期を完了したから」
窓の外では、初夏の新しい一日が、眩い光と共に始まろうとしていた。
私たちは、傷だらけのハードウェアのままで、二度と書き換えられることのない、最高に美しい愛のログを、確かにそこに刻みつけていた。




