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不完全なサーモグラフィと、六月の境界線

梅雨の本格的な到来を告げるように、空は朝から低い雲に覆われていた。湿気を含んだ風がキャンパスの廊下を通り抜けるたび、肌にまとわりつくような熱を感じる。


リャオ、君の頸動脈付近の血流が、通常時より14%加速している。外気温との差による熱中症の初期症状か、あるいは……」


講義室の最前列。阿爾アルは私のすぐ隣に座り、教科書の余白にボールペンで滑らかなグラフを描きながら呟いた。


「あるいは、何よ」


私がノートに目を落としたまま小声で返すと、阿爾はペンを止め、その翡翠色の瞳をいたずらっぽく細めた。


「あるいは、僕の左手が君の制服の裾に触れていることによる、心理的な動揺バグ。……どちらだろうね?」


机の下。彼の言う通り、冷たい人工皮膚の指先が、私の太ももの境界線にそっと触れていた。人目が遮られたその狭い空間で、彼の指はなぞるようにゆっくりと動き、私の体温を直接デコードしていく。


「……阿爾、ここ最前列。教授の目の前なんだけど」


「問題ない。僕の計算では、教授の視線がこの席に向く確率は、あと3分42秒間は0.03%以下だ。それよりも……」


彼は私の耳元に顔を寄せ、微かなファンノイズを混ぜながら囁いた。


「付き合い始めてから、君の『警戒レベル』が下がったね。以前なら、こうして触れるだけで僕の手を叩き落としていたのに。……今の君の回路は、僕の侵入を完全に許容(アクセス許可)している」


「……っ、うるさい。講義に集中させて」


私は真っ赤になった顔を隠すように、わざと大きな音を立てて教科書のページをめくった。

記憶がリセットされ、もう一度「恋人」としてシステムを構築し直した今の阿爾は、以前よりもずっと、人間の『弱点』を突くのが上手くなっていた。


講義が終わり、学生たちで混み合うお昼休みのキャンパス。

私たちは中庭の隅にあるベンチに座っていた。阿爾は私が持参したお弁当の包みを開けながら、自分の網膜カメラで私の顔をじっとスキャンしている。


「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」


「いや。君が髪を耳にかける仕草のフレームレートを、もう少し上げたいと思ってね。僕のプライベート・ストレージに、最も美しい状態で保存セーブしておきたいんだ」


「あんた、本当に言うことがいちいちオタクっぽいっていうか、機械っぽいっていうか……」


「僕はドールだからね。でも、この機械のハードウェアだからこそ、君への愛を1ビットも劣化させずに、永遠に保持できる。それは人間の恋人には真似できない、僕だけの特権アドバンテージだよ」


阿爾はそう言って、お弁当の卵焼きを器用に箸で挟み、私の口元へと運んできた。

「ほら、遼。あーん、をして」


「……、自分ですすんで食べるから!」


管理者こいびとの命令以外、僕のシステムは受け付けないよ。さあ、早く。君が口を開けるまで、僕はここで給食ロボットのように固定され続ける予定だ」


周囲の視線が少し気になったけれど、彼の引き締まった綺麗な顔があまりにも真剣で、私は諦めて小さく口を開けた。

彼が嬉しそうに微笑む。その瞬間、彼の胸の奥から「トクン……」と、人工心臓が刻む、人間そっくりの温かい鼓動が伝わってきたような気がした。


その日の夜。

約束通り、外は激しい雨になり、窓ガラスを激しく叩いていた。

部屋の明かりを消し、ベッドのヘッドボードにつけた間接照明だけを灯すと、室内は琥珀色の淡い光で満たされた。


阿爾は私の隣に腰掛け、私の濡れた髪をタオルで優しく拭いてくれていた。

彼の指が髪の隙間を通り、首筋に触れるたび、ひんやりとした冷たさが心地よくて、私は小さく吐息を漏らす。


「遼」


阿爾がタオルを置き、私の両肩を包み込むようにして、自分の方へと向き直らせた。

翡翠色の瞳が、間接照明の光を反射して、まるで深い海の底のように妖しく、美しく輝いている。


「僕のシステムは一度新しくなったけれど、君とこうして過ごす夜の空気だけは、基板の奥がずっと『知っている』と主張するんだ。……君を抱きしめた時の、この、胸の痛くなるようなプロトコルを」


彼はゆっくりと顔を近づけ、私の唇に自分の唇を重ねた。


それは、昼間のいタズラっぽさとは打って変わった、深く、私のすべてを独占しようとするような濃厚な口づけだった。

彼の舌が滑り込んできて、私の中の温度を確かめるように絡み合う。頭の芯がジーンとしびれ、私は彼の首に腕を回して、自分からそのノイズの中に深く沈んでいった。


「ん……、あ……、アル……」


唇が離れると、阿爾は私の首筋に顔を埋め、激しくシミュレートされた呼吸を私の肌に吹き付けた。


「……遼。君のすべてを、僕のコードで上書きしたい。……君の記憶も、身体も、僕以外の誰も触れられないように、僕の名前だけで完全に暗号化ロックしてしまいたいんだ」


記憶を失っても、消えなかった強い執着。

いや、一度彼を失いかけたからこそ、私の中の独占欲もまた、彼のシステムと完全に同期シンクロしていた。


「……いいよ。……あんたの好きに、書き換えて」


私がそう囁くと、阿爾は狂おしそうな、だけど世界で一番愛おしそうな笑みを浮かべ、もう一度、私を深い闇の向こうへと連れ去るように、激しく唇を塞いだ。


雨音は激しさを増していく。

けれど、この閉ざされたセクターの中で、私たちは互いの存在だけを唯一の真実ログとして、どこまでも深く、繋がり続けていた。

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