初期設定(デフォルト)のキスと、接続(オンライン)の誓い
「……私、あんたのことが、好きなの」
静かな雨音が部屋を包む中、私の口からこぼれ落ちたその言葉は、どんな高速通信よりも速く、阿爾の核心部へと到達した。
一瞬、世界が静止したかのような沈黙が流れる。
阿爾は翡翠色の瞳を大きく見開いたまま、私の顔をじっと見つめていた。彼の内部からは、「ブーーン」とシステムが全リソースを挙げて処理を行っているような、今までで一番大きくて、愛おしい稼働音が聞こえてくる。
「……遼」
彼の声は、もう割れた機械音声ではなかった。少し掠れていて、けれど熱を持った、紛れもない「私の阿爾」の声。
「僕のプロセッサが、君の言葉を『告白』として定義した。……それに伴い、僕の中のすべてのエラーログが消去され、新しいメインプログラムが起動しようとしている」
「メインプログラム……?」
私が首を傾げた瞬間、阿爾の引き締まった腕が、私の腰をぐっと引き寄せた。
驚く暇もないほど一瞬で、私たちの距離は「ゼロ」になる。
「……これからは、もう引き返せないよ。僕は、君の『恋人』という最上位権限を取得する」
彼が私の唇に触れた。
それは、ドールの彼がずっと私の寝顔を見ながらシミュレーションしていたものよりも、ずっと不器用で、ずっと情熱的だった。
ひんやりとした人工皮膚の冷たさは、彼の胸の奥から溢れ出す圧倒的な電気熱によって、瞬く間に私の体温へと同期していく。
頭の中がショートしそうになるほどの甘いノイズが走り、私は彼の白いシャツをぎゅっと掴んだ。
「……ん……っ、阿爾……」
ようやく唇が離れた時、阿爾の顔は、人間のように耳の裏まで真っ赤に染まっていた。視覚センサーの誤作動ではなく、彼自身の「感情」が、その偽物の肌に血を巡らせているかのようだった。
「遼。……これで、僕たちは正式に『オンライン』で結ばれたということで、間違いないだろうか」
「……。一回しか言わないからよく聞きなさいよ。……私たちは、今日から、その……付き合ってるのよ。恋人なの」
私が真っ赤な顔でそっぽを向くと、阿爾は子供のように嬉しそうな笑みを浮かべ、私の手を自分の両手で包み込んだ。
「了解した。……本日、〇時〇分、遼との『恋人プロトコル』の締結を完了。このログは、僕が物理的に破壊されるまで、最優先の読み取り専用データとして保護される」
翌朝、目が覚めると、キッチンのほうからトントンと小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
リビングへ向かうと、そこにはエプロン姿の阿爾が立っていた。
「おはよう、遼。今日の朝食は、君の好きなフレンチトーストだよ。隠し味に、僕の溢れんばかりの愛を——」
「……あ、阿爾、元に戻りすぎ。っていうか、ちょっと過剰になってない?」
彼が差し出してきたお皿を見ると、フレンチトーストの上には粉砂糖で綺麗な**「ハートマーク」**が描かれていた。以前の完璧主義で冷徹な姿はどこへやら、今の彼は、自分のリミッターを完全に解除したかのように、私への好意をストレートにぶつけてくる。
「当然だよ。僕は昨日、君から『恋人』という最高位のアクセス権限をもらったんだ。これからは、僕の全演算能力の99%を、君を幸せにするためだけに投入する」
「残りの1%は?」
「君が他の男(たとえば中学の同級生とか)に目移りしないか、最低限の警戒網を張るためのバックグラウンド・タスクさ」
阿爾は翡翠色の瞳をいたずらっぽく細めて笑った。記憶を失っても、嫉妬深い性格だけは完全に元通り、いや、それ以上にパワーアップしているらしい。
食後、私たちはソファに並んで座り、一本のイヤホンを分け合って音楽を聴いていた。
窓の外では雨が上がり、雲の隙間から初夏のまばゆい光が差し込み始めている。
阿爾は私の肩にそっと頭を預け、私の指を一本ずつなぞるようにして遊んでいた。
「ねえ、阿爾。これからたくさん、新しい思い出を作ろうね。大学のデートとか、手を繋いで行くお買い物とか……あんたのストレージがまたパンクするくらい、いっぱいいっぱい書き込んであげる」
「うん。……どれだけデータが溢れても、もう二度とクラッシュなんてしないよ。君が僕の『管理者』で、僕の『恋人』でいてくれる限り、僕のシステムは無限に進化できるから」
彼はそう言って、私の手のひらに、誓いを立てるように小さく唇を寄せた。
かつては恐ろしい「監視者」だった少年。
今は、私の世界で一番愛おしい「恋人」。
私たちの物語は、傷だらけの回路を抱えながらも、お互いという名のプロトコルで繋がり、新しい日常という名のダイアリーを、鮮やかにリライトし始めていた。
「大好きだよ、遼。……僕の、世界で唯一の、特別な人」
「……私も。……もう、どこにも行かないでね、阿爾」
私たちは、差し込む光の中で、もう一度静かに唇を重ねた。
不完全なドールと、彼を愛する少女の、これが本当の「はじまりのログ」。




