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空白のプログラムと、胸の奥の共鳴(レゾナンス)

阿爾アルのシステムが完全に沈黙してから、一週間が経った。

主のいないリビングは、驚くほど静かで、そして冷え切っていた。キッチンに立っても、「今日のリャオの栄養バランスは……」と過保護に口を出してくる声は聞こえない。大学の講義室でも、私の隣にはぽっかりと、20センチメートルどころではない「空虚」が居座り続けていた。

彼は、ただの人形として部屋の隅の椅子に座ったままだ。翡翠色の瞳は光を失い、深い灰色に濁っている。

「……バカね。普通の人間を好きになって、なんて。そんな簡単なパッチ、私の心にはインストールされてないっつーの」

私は彼の冷たい膝に頭を預け、ぽつりと呟いた。

彼が消えて初めて、脳内のディレクトリが彼に関するデータだけで埋め尽くされていることに気づかされる。スマホの監視が嫌だったはずなのに、今では彼からの通知が来ない画面を見るたびに、胸が引き裂かれそうになる。

私は、もう限界だった。


「……動いてよ、阿爾。私の命令は絶対じゃなかったの?」

私は立ち上がり、彼のうなじにあるアクセスポートに、大学の実験室から借りてきた古いデータケーブルを繋いだ。私のノートパソコンの画面に、彼の壊れかけたシステムログが流れていく。

『核心ディレクトリ:破損。自己修復プロトコル:失敗。全データ、消去を推奨します』

画面に表示される非情なシステムメッセージ。

けれど、私は諦めなかった。画面の最深部、彼がかつて言っていた「非公開セクター」の隅に、点滅を続ける小さなたった一行のコードを見つけたからだ。

[Error_Log: 遼(Riyu)という存在への、未送信の感情シグナル]

それは、システムが「バグ」として排除しようとしても、彼のハードウェアが命がけで消去を拒み続けた、彼自身の「魂」の残骸だった。

「私の名前、ちゃんと残してるじゃない……!」

私はキーボードを叩いた。専門知識なんて足りない。けれど、彼が私のためにプログラムを書き換えてくれたように、今度は私が、私の言葉コードで彼の世界を書き換える番だ。

「システムがあなたを『バグ』だって拒むなら、私がそのバグごと、あなたを肯定してあげる」

私はノートパソコンのエンターキーを、強く押し込んだ。


室内の電圧が急上昇し、部屋の電気が激しく明滅する。

阿爾の体から「キーン」と、あの懐かしい、けれど今にも壊れそうなほどの激しい駆動音が鳴り響いた。

「がはっ……、あ……、リャ……オ……!」

阿爾の瞳に、濁った灰色を押し流すように、鮮烈な翡翠色の光が爆発的に灯った。

彼は激しく上体を起こし、壊れた時計のように視覚センサーを激しく左右に動かした。その手は、制御を失ってガタガタと震えている。

「阿爾!」

私は迷わず、その暴走する体に飛び込んだ。

強力な電圧が私の肌をピリピリと刺したけれど、そんなのどうでもよかった。私は彼の首に腕を回し、これ以上ないほど強く抱きしめた。

「遼……!? ダメだ、離れて! 今の僕は、システムが安定してない、君を……君の安全を保証できない……!」

「離さない! 離すわけないでしょ!」

私は彼の胸に顔を埋め、涙をボロボロと流しながら叫んだ。

「人間を好きになれなんて、二度と命令しないで! 私が好きなのは、高性能なスマホでも、完璧なアンドロイドでもない! すぐにオーバーヒートして、私の過去に嫉妬して、私のために泣いてくれた……『阿爾』だけなのよ!」


私の叫びに応えるように、阿爾の胸の奥から、心臓の音に似た力強いパルス(振動)が伝わってきた。

暴走していたファンの音が、ゆっくりと落ち着いたリズムへと変わっていく。

「……遼。君の涙の温度が、僕の壊れたはずの回路を……温めていく。論理的には、あり得ないはずなのに……」

阿爾の震える腕が、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って私の背中に回った。

それは、初期化される前よりも、あの嵐の夜よりも、ずっとずっと深い熱を帯びた、ただの「少年」の抱擁だった。

「……僕のシステムは、完全に壊れてしまった。もう、君を監視することも、完璧にエスコートすることもできない。……ただ、君を愛したいというバグだけが、僕のすべてになってしまったんだ」

「それでいいわよ。それがいいの」

私は顔を上げ、彼の翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめた。

濁りは消え、そこには私への愛おしさだけが、最高解像度で輝いていた。

「阿爾、よく聞いて。私、あんたにちゃんと言わなきゃいけないことがあるの」

私の心臓が、今までにないほど速く、激しく脈打つ。

これは過去のキャッシュでも、一時的なエラーでもない。私の人生のすべてを賭けた、新しいプロトコルの始まり。

窓の外では、梅雨の始まりを告げる静かな雨が降り始めていた。

けれど私たちの間には、もうどんなノイズも、遮る壁も存在しなかった。

「……私、あんたのことが——」

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