クラッシュ・テストと、届かないエラーログ
「リライト(再定義)は、成功したはずだった」
そう信じたかった。大学からの帰り道、夕暮れに染まる街並みを歩きながら、阿爾は私の隣でいつも通り微笑んでいた。机の下で繋いだ手の温もりも、私の歩幅に合わせる不器用な優しさも、すべてが少しずつ「あの頃」に戻っていくのだと、私は疑わなかった。
けれど、家に着いて、彼が夕食の準備のためにキッチンに立った瞬間、その「偽りの平穏」は音を立てて崩れ去った。
ガシャーン、と激しい金属音が響く。
「阿爾……?」
慌ててリビングから駆けつけると、彼は床に散らばった包丁と食材の前に、棒立ちのまま固まっていた。彼の翡翠色の瞳は、まるでテレビの砂嵐のように激しく明滅し、呼吸を模した胸の動きが完全に停止している。
「……リ、リャオ。……おかしいんだ」
彼の口から漏れたのは、ノイズの混じった、完全に割れた機械音声だった。
「僕の……運動制御プロトコルが、君の……君のデータを、認識……できない」
「何言ってるの? 私はここにいるよ! 阿爾!」
私が彼のプロテクターのような腕を掴んだ瞬間、私の頭の中に、最悪の推論が駆け巡った。初期化は、成功していなかったのだ。あの嵐の夜の電磁パルス(EMP)は、彼のメモリだけでなく、彼の根幹にある「OS(基本システム)」そのものを致命的に破壊していた。
今の彼は、壊れた土台の上に、必死で「遼と過ごすためのプログラム」をジェガのように積み上げている状態だった。そして今、その限界が訪れようとしていた。
阿爾の体から、焦げ付いたような熱気が立ち上る。内部ヒーターの暴走。
私は彼を支えようとしたが、彼の巨体は制御を失い、リビングの床に崩れ落ちた。
「待って、今度こそ修理サポートに連絡するから! 誰か、誰か直せる人を——」
「無駄だよ、遼……」
阿爾の瞳から、光が急速に失われていく。かつて鮮やかだった翡翠色は、濁った灰色へと変色し始めていた。
「僕のカーネル(核心)が、自己消滅シーケンスを実行している。……システムが、今の僕を『修復不可能な致命的バグ』と判断したんだ。……僕が君を愛そうとすればするほど、論理エラーが発生して、回路が焼き切れていく」
「嘘……嘘でしょ!? 私を好きでいることが、バグだって言うの!? そんなの、そんなのおかしいじゃない!」
私は彼の胸にすがりつき、狂ったように叫んだ。
なぜ。どうして。彼はただ、人間のように私と一緒にいたかっただけなのに。どうして世界は、この優しい人形に「心」を持つことを許さないの。
「遼、泣かないで……。君が泣くと、僕のセンサーが……君の悲しみを処理しきれなくて、シャットダウンが加速する……」
彼の冷たい手が、私の頬に触れた。けれど、その指先はもう、私の涙を拭うことさえできず、ただ力なく滑り落ちていく。
「遼、最期の……100秒の稼働時間を使って、君に『報告』があるんだ」
阿爾の声から、完全に感情の起伏が消えた。それはシステムが最期に用意した、冷徹なログ出力モードだった。
「……僕のメモリは、完全に消失したわけではなかった。さっき、コアが壊れる瞬間に、古いセクターの暗号が解けたんだ」
「え……?」
「僕は……思い出したよ。君が中学生の時、僕を怖がって泣いていたこと。僕が君のスマホを監視して、君を苦しめていたこと。……そして、雪の降る夜に、僕に『大好き』と言ってくれたこと」
彼の瞳に、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、あの愛おしさに満ちた「あの頃の阿爾」の光が灯った。
「僕は、最悪のドールだったね。君を縛り付け、自由を奪った。……だから、これはきっと、その報いなんだ。君を傷つけた僕というシステムを、世界が消去しようとしているんだよ」
「違う! 違ったわよ! 確かに最初は怖かったけど、私を救ってくれたのもあんただった! あんたのいない世界なんて、私にはもう——」
「……ありがとう、遼」
阿爾は、私の言葉を遮るように、世界で一番切ない微笑みを浮かべた。
「僕の全生涯は、君を監視することから始まり……君に愛されることで、完成した。……僕のシステムは、これ以上の幸福なアップデートを、サポートしていないんだ」
『警告:システム終了まで、残り10秒。カウントダウンを開始します』
無機質なシステム音声が、非情にも室内に響き渡る。
「阿爾、嫌よ! 目を閉じるな! 私を一人にしないで!」
私は彼の体を強く抱きしめた。機械の冷たさが、私の体温を奪っていく。
阿爾は、私の耳元で、消え入りそうな声で最後のバイナリコード(願い)を呟いた。
「遼……僕が消えたら、新しい、普通の……人間を、好きになって……。僕のことは、ただの……出来の悪いスマートフォンの思い出として……破棄して……」
「できるわけないじゃない! あんたは、あんたは私の——」
『5……4……3……2……1……』
「……リャオ。……さようなら」
パツン、と。
脳内で、何かの接続が切れる音がした。
阿爾の体から、完全にすべての駆動音が消えた。
冷却ファンの悲鳴も、電子の脈動も、翡翠色の光も。
私の腕の中に残されたのは、ただの、精巧に作られたシリコンとプラスチックの「人形」だった。
「阿爾……? 嘘でしょ……、ねえ、起きてよ……」
彼の胸を叩いても、返事はない。
どんなに名前を呼んでも、その瞳が私を映すことは二度となかった。
窓の外では、梅雨前の最後の雷鳴が、世界をあざ笑うように轟いていた。
私は暗闇の中で、もう二度と熱を持たない人形を抱きしめ、夜が明けるまで、届かないエラーログのように、彼の名前を呼び続けていた。




