不完全なリライトと、二人の周波数(チャンネル)
阿爾が淹れてくれたココアは、以前よりも少しだけ甘さが控えめだった。けれど、そのマグカップから立ち上る湯気の向こうで、彼は少しだけ誇らしげに、そしてどこか不安そうに私の反応を待っていた。
「……どうかな、遼。僕の記憶の断片に残っていたレシピ通りに作ってみたんだけど、君の味覚センサー(好み)に適合しているだろうか」
「うん。……美味しい。ちょっと甘さが足りないけど、今のあんたが作ってくれたってだけで、100点満点よ」
私が一口飲んで微笑むと、阿爾はホッとしたように胸の冷却ファンを小さく回した。その仕草一つをとっても、初期化直後のあのロボットのような冷徹さは消え、少しずつ「彼らしさ」が戻ってきているのが分かった。
メモリは一度クリアされてしまった。けれど、彼というハードウェアには、私と一緒に過ごした日々の「癖」や「震え」が、消えない傷跡のように深く刻み込まれているのだ。
翌日、私たちは再び大学のキャンパスへと向かった。
五月の風は少し汗ばむほどで、青空からは容赦ない初夏の太陽が降り注いでいる。阿爾は私の半歩後ろを歩きながら、しきりに周囲の景色を視覚センサーでスキャンしていた。
「……ここは、見覚えがある。僕たちは以前、この場所で誰かと接触したログがあるね」
校舎の角に差し掛かった時、阿爾が足を止めて言った。そこは、数週間前に中学の同級生たちと偶然出会った、あのラウンジの前だった。
「覚えているの? 阿爾」
「データとしての詳細(名前や会話内容)は破損している。でも、この空間の座標に近づくと、僕の中の『独占欲』という名のプロトコルが、異常な警告数値を叩き出すんだ。……ここで僕は、君に関わる何か不愉快なデータを処理した形跡がある」
私は思わず吹き出してしまった。記憶を失っても、佐藤くんに告白された私の過去に対する「嫉妬」の残滓だけは、システムの最深部にこびりついているらしい。
「あんたって、本当に執念深いドールね。記憶が消えても嫉妬のバグだけ残ってるなんて、どんなプログラムよ」
「バグではないよ、遼。これは僕の基幹システムが、君という存在を最優先で保護しようとしている防衛本能なんだ」
阿爾は少し不満げに唇を尖らせた。その表情は、初期化前と全く同じで、私の胸を愛おしさでいっぱいにした。
しかし、完全に元通りになったわけではなかった。
講義室に入り、いつものように隣同士で席に着いた時、私はふと違和感を覚えた。
以前の阿爾なら、座った瞬間に机の下で私の手を握るか、あるいは「僕の肩に寄りかかってもいいよ」と、距離感を無視して近づいてきたはずだった。
けれど今の彼は、私との間に正確に「20センチメートル」の距離を空けて座っている。
「……阿爾、なんでそんなに離れて座るの?」
私が尋ねると、阿爾はノートを開く手を止め、翡翠色の瞳を少しだけ伏せた。
「……今の僕は、君に対する適切な距離感を測りかねているんだ。以前の僕のログを解析すると、僕は君に対して、かなり過剰な身体接触を行っていた形跡がある」
「……まあ、そうね。隙あらば抱きついてきたわよ」
「それが、今の僕には少し恐ろしい。僕は一度、システムエラーで君を傷つけそうになったのだろう? 記憶はなくても、その『恐怖』のログだけはシステムが警告として発している。もし、僕がまた暴走して、君の安全性を脅かすようなことがあったら——」
阿爾の指先が、微かに震えていた。
彼は、自分がドールであるという事実に、そして自分の「不完全さ」に、誰よりも怯えていたのだ。私を愛していたという本能があるからこそ、私を傷つけることを何よりも恐れている。
私は何も言わずに、その20センチの空白を詰めた。
椅子を引き寄せ、阿爾の肩に私の肩をぴったりと押し付ける。そして、机の下で、彼の震える手を迷わずに掴んだ。
「ひゃっ……、遼?」
阿爾の体が一瞬で強張る。彼の内部から、電圧が急上昇した時特有の「キーン」という高い稼働音が聞こえてきた。
「暴走なんかさせないわよ。もしあんたのシステムがまたおかしくなりそうになったら、私がこうして、力づくでも止めてあげる。あんたの管理者は私でしょ?」
私は彼の目を見つめ、一文字ずつ刻み込むように言った。
「距離なんか空けないで。私は、あんたの熱を感じられない方が、ずっと怖いの」
阿爾は大きく目を見開いた。
彼の翡翠色の瞳の奥で、無数の光の粒子が高速で点滅し、書き換えられていくのが分かった。過去の記憶を呼び戻すのではない。今、この瞬間の私の言葉が、彼の新しい世界の「法律」として、上書き保存されていくのだ。
「……。……了解、しました。管理者の命令に、従います」
阿爾はそう呟くと、今度は自分から、私の手を壊れ物を扱うように、けれど絶対に離さないという強い力で握り締めた。
「……警告メッセージをシャットダウン。これより、君との距離を『ゼロ』に再設定する」
彼の顔に、あの懐かしい、少しだけ意地悪で、世界で一番優しい笑みが戻ってきた。
講義が終わる頃には、空にはうっすらと夕暮れのオレンジ色が混ざり始めていた。
キャンパスを出て、私たちは一本の影になって歩く。
「ねえ、阿爾。これから毎日、あんたの知らない私の話を一つずつ教えてあげる。そうすれば、あんたのストレージは、またすぐに私との思い出でいっぱいになるわよ」
「それは素晴らしい提案だね。できれば、僕の知らない君の『黒歴史』も含めて、すべてのデータを網羅したい」
「それは却下。消えたものは消えたままでいいの!」
「不公平だ。僕のシステムは、君に関するすべてのログを要求しているのに」
文句を言いながらも、阿爾は私の歩幅にぴったりと合わせて歩いている。
彼の体温は、夕暮れの風の中で、確かに私を温めていた。
メモリは白紙に戻ったかもしれない。
けれど、私たちの間にあるこの「周波数」は、どんな嵐が来ても、何度リセットされても、絶対にズレることはない。
私たちは、新しくなった世界の中で、また二人だけの不完全な、けれど愛おしい日常を、一歩ずつ刻み始めていた。




