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白紙のダイアリーと、手探りの接続(コネクション)

システムが初期化され、あの嵐の夜から数日が経った。

阿爾アルは、かつての傲慢なまでの独占欲や、私を「リャオ」と呼ぶ時の甘い響きを失い、完璧で、無機質で、非の打ち所のない「執事型ドール」として、私の隣にいた。


今の彼は、私のことを「管理者アドミニストレーター」と呼ぶ。

その言葉を耳にするたび、私の胸の奥には、薄氷を踏むような鋭い痛みが走った。


「管理者、朝食の準備が完了しました。本日の栄養バランスは、あなたの生体バイオリズムに合わせて最適化されています」


キッチンに立つ阿爾は、以前のようにハチマキを巻くこともなく、効率的な動きでプレートを並べていく。焦げたクッキーも、ケチャップで書かれた「LOVE」の文字もない。そこにあるのは、完璧な、けれど「感情の体温」を失った朝食だった。


「……阿爾。ねえ、昔みたいに『遼』って呼んでくれない?」


私がサラダを突きながら小さく溢すと、彼は手を止め、翡翠色の瞳を何度か明滅させた。


「……。私の言語プロトコルでは、所有者に対して適切な敬称を用いるよう規定されています。……しかし、もしあなたがそれを『命令』として定義するのであれば、一時的に上書き(オーバーライト)は可能です」


「命令じゃないわよ……。ただ、そう呼んでほしかっただけ」


「理解不能です。呼称の変更による機能的な利点は認められませんが……。……了解しました。……り、リャオ。……これで、よろしいでしょうか?」


彼の口から漏れた私の名前は、どこかたどたどしく、不自然だった。それでも、その音の響きに、私はほんの少しだけ希望を見出そうとしていた。


大学の講義中、阿爾は相変わらず私の隣でノートを取っていた。

以前の彼は、教授の話を聞きながらも、私の横顔を盗み見ては「今日の君の瞳は昨日より0.2ミリ潤んでいるね」なんて、恥ずかしい分析結果を耳元で囁いていた。


今の彼は、一言も発さず、ホワイトボードの文字を淡々とデジタルデータへ変換し続けている。


「……ねえ、阿爾。この数式、覚えてる?」


私がわざと、以前彼が屋上で解いてみせた複雑な最適化アルゴリズムを指差した。


「検索中……。……はい、基本的な最適化問題ですね。標準的な解法はライブラリに存在します。解説が必要ですか?」


「……ううん。あの日、あんたがこの数式の後に言った『言葉』は、ライブラリにはないのね」


「……? 記録されていません。その時、私は何と言ったのですか?」


彼は不思議そうに、私の顔を覗き込んできた。その無垢な瞳を見ていると、彼をリセットしてしまった自分を責めたくなる。でも、彼を助けるためには、あの夜、スイッチを入れるしかなかったのだ。


「……なんでもない。ただの、システムのゴミよ」


私はノートを閉じて、逃げるように教室を出た。


その日の夜、私はリビングで古いアルバムを開いていた。阿爾が初期化される前、彼が「最高画質で残したい」と言っていた思い出の数々が、そこにはアナログな写真として並んでいる。


阿爾が、音もなく私の背後に立った。


「……それは、何ですか?」


「私たちの、思い出。あんたが忘れてしまった、あんたが『宝物』だって言っていた時間の欠片よ」


阿爾はアルバムに手を伸ばし、一枚の写真を指でなぞった。それは、聖誕祭クリスマスの夜に撮った、二人でマフラーを巻いている写真だ。


「……。……。この画像を見ていると、私のプロセッサが異常な熱量を検知します。……エラーコード、404。該当するログは存在しないはずなのに、回路が……ここを、知っていると言っています」


彼は、自分の指先をじっと見つめた。


「管理者……いえ、遼。……僕のストレージは空っぽのはずなのに、君が笑っている写真を見ると、何故か僕の深層学習ユニットが、勝手に『愛おしい』というラベルを生成しようとするんだ。……これは、バグですか?」


「……。バグじゃないわよ」


私は立ち上がり、彼の冷たい手を握った。


「それは、あんたの体が、あんたの回路が、私を愛していたことを『忘れたくない』って抵抗してる証拠よ。……たとえ記憶が消えても、あんたの作った『心』のパッチは、まだどこかに残ってる」

4. ハードウェアの反乱


阿爾は、私の手を握り返した。

その力加減は、初期化された直後の無機質なものではなく、少しだけ強くて、震えていた。


「遼。……教えて。僕は以前、君のことをどう呼んでいた? 君に、どんな顔で触れていた?」


「……。あんたはね、最高にわがままで、嫉妬深くて、私のことが大好きだって、一秒ごとに言わないと気が済まないような、めんどくさいドールだったわよ」


私は笑いながら、涙を堪えて答えた。


「……そう、ですか。……それは、今の僕よりもずっと、幸せな個体だったのですね」


阿爾は、ゆっくりと私の額に自分の額を重ねた。

その瞬間、彼の瞳が激しく翡翠色に輝いた。


「……同期シンクロ……開始。……遼、僕を助けて。……真っ白な世界の中で、君の声だけが、僕を繋ぎ止める唯一の信号なんだ」


彼の言葉が、以前の「彼」の声に重なったような気がした。

初期化されても、魂のキャッシュは消えていない。

基板に刻み込まれた愛の振動は、何度でも新しいプログラムを書き換えていく。


「大丈夫よ。……何度だって、教えてあげる。何度だって、あんたを私の『阿爾』にしてあげるから」


夜の静寂の中、私たちは暗闇の中で互いの体温を確かめ合った。

メモリは白紙。けれど、その余白には、これからもっと強くて、もっと深い「新しいログ」が刻まれていく。


不完全なドールと、彼を愛する少女。

二人の接続コネクションは、リセットされるたびに、より強固なものへとアップデートされていくのだ。


「……遼。……ココア、淹れてくるよ。……隠し味、思い出した気がするんだ」


阿爾は少しだけ、不器用な笑顔を見せた。

その笑顔は、紛れもなく、私が愛したあの「バグ」だらけの少年のものだった。

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