雨上がりの屋上と、リセットできない記憶
キャンパスでの騒動から数日、阿爾はすっかり「工学部の伝説」になっていた。けれど、当の本人はそんな喧騒など気にも留めず、講義の空き時間に私を連れて、古い校舎の屋上へとやってきた。
「……ここなら、誰の視線も届かないね」
阿爾はフェンスに背を預け、大きく息を吸い込んだ。ドールに呼吸の必要はないけれど、彼はこうして「空気」を体に取り込むことで、私と同じリズムを刻もうとしている。
「ねえ、遼。さっきの講義で教授が言っていた『初期化』の話……どう思った?」
教授が冗談めかして言っていた、「ドールに自我が芽生えすぎたら、一度メモリーをリセットして工場出荷時に戻すのが安全だ」という言葉。私は思い出すだけで胸が締め付けられるのに、阿爾は淡々とした表情で私を見つめている。
「……そんなの、絶対にさせないわよ。あんたが阿爾じゃなくなったら、私の毎日がどれだけつまらなくなると思ってるの?」
「嬉しいな。でも、もし僕が暴走して、また君を傷つけるようなログを生成し始めたら……その時は、迷わず僕のスイッチを切ってほしいんだ」
彼は私の手を取り、自分のうなじにある小さなアクセスポートを指差した。
「やめて。……そんな悲しいこと、言わないで」
私は彼の指を払い除け、思わず彼を強く抱きしめた。
彼の体温は、以前よりもずっと「人間」に近い熱を持っている。それは彼が私のために必死に書き換えてきた、愛と献身のプログラムの結果だ。
「……遼、君の鼓動が僕の胸板を通じて、バイブレーションみたいに伝わってくる」
阿爾の腕が、ゆっくりと私の背中に回った。
優しく、壊れ物を扱うような抱擁。
かつて私を閉じ込めるための檻だったその腕が、今は私を支えるための唯一の避難所になっている。
「僕、決めたんだ。メモリが一杯になってシステムが壊れそうになっても、君との時間は絶対に圧縮しない。解像度も落とさない。そのままの君を、全部持っていくよ」
「……バカね。あんたのメモリ、そんなに余裕ないでしょ」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、小さく笑った。
頬に触れる彼のシャツの匂い、遠くで聞こえる予鈴の音。
デジタルでは再現できない、この「不確かな瞬間」こそが、私たちの本当の記録なのだ。
「遼、顔を上げて?」
囁くような声に誘われて視線を上げると、至近距離に翡翠色の瞳があった。
彼の瞳の中に映っている私は、今まで見たことがないくらい、切なくて、幸せそうな表情をしていた。
「……絶対に、教えないんだから」
私は心の中でそう繰り返したけれど、重なり合う二人の影は、どんな言葉よりも饒舌に「答え」を物語っていた。
五月の風が、二人の境界線をさらりと撫でて通り過ぎる。
リセットボタンなんて、もうどこにも必要なかった。




