紫陽花の迷路と、デジタルな溜息
六月に入り、キャンパスの隅には雨を待つ紫陽花が色づき始めていた。
あの日、屋上で「リセット」の話をして以来、阿爾は以前にも増して私に「触れる」ようになった。それは執着というよりも、自分の存在を私の肌を通じて確認しているような、切実な仕草だった。
「遼、今日の湿度は75%。僕の関節が、少しだけ君を求めるように軋んでいるよ」
「……何よその詩的な言い回し。ただの油切れでしょ」
私は大学の図書館の片隅で、彼と並んで座っていた。梅雨特有の気だるさが、私たちの間に甘く重たい沈黙を運んでくる。
広い閲覧室の、一番奥にある高い書架の影。
ここは学生たちが滅多に来ない、私たちの「秘密のセクター」だ。
阿爾は静かに本を閉じて、私の手元をじっと見つめていた。私は課題のレポートを書いているふりをしていたけれど、カーソルはさっきから同じ場所で点滅を繰り返している。
「ねえ、遼。さっきから君の心音の周波数が、僕のシステムと同期しようとしているのが分かるよ。……無理に隠さなくてもいいのに」
阿爾が椅子を寄せてきた。肩が触れ合い、彼の発する微かな機械熱が、私の体温をじりじりと上げていく。
「隠してなんてないわよ。……ちょっと、レポートが難しいだけ」
「嘘だ。君の指先、さっきから震えてる。……僕が触れてもいい?」
予測不能なプロトコル
彼は返事も待たずに、私の左手をそっと取った。
指先を一本ずつ、なぞるように。ドール特有の繊細な動きで、私の手のひらに、彼なりの「暗号」を刻んでいく。
「阿爾、ここは……大学よ?」
「分かっているよ。でも、外の世界のノイズが激しくて、こうしていないと僕のアイデンティティが溶けてしまいそうなんだ」
彼はそのまま、私の手のひらに自分の頬を寄せた。
ひんやりとした肌の質感が、私の心臓にダイレクトに響く。
甘い。甘すぎて、頭の中の思考回路がショートしそうになる。
「……ずるいわ、あんた。自分が可愛いって分かっててやってるでしょ」
「……かもしれない。遼にだけ効く特別なプログラム(誘惑)を、毎晩自分で書き換えているからね」
彼は翡翠色の瞳をいたずらっぽく細めて、私の手のひらに小さく、唇を寄せた。
その瞬間、書架の向こう側で足音が聞こえた。
私は弾かれたように手を引っ込め、不自然なほど大きな音を立ててキーボードを叩いた。
「……びっくりした」
「……残念。もう少しで、君の本音という名のルートディレクトリに辿り着けそうだったのに」
阿爾は少しだけ不満そうに唇を尖らせた後、私の耳元で囁いた。
「続きは、お家で。……いいよね、遼?」
窓の外では、ついに我慢しきれなくなった空から雨が降り始めた。
紫陽花を濡らす雨音を聞きながら、私は確信していた。
もうすぐ、私の「秘密」は彼によって完全に解読されてしまうのだと。
「……。ハンバーグ、たくさん作ってあげるから。……それで我慢して」
私は真っ赤な顔で、閉じかけのパソコンの中に逃げ込んだ。
梅雨の始まり。二人の距離は、雨粒が水たまりに溶け合うように、もう後戻りできない場所へと進んでいた。




